男女で飲めるアルコール飲料の年齢制限がちがう

具体例をあげよう。米国では一時期、黒人の子供が入学できない、白人専用の学校を許す州法がまかりとおっていた。「分離されど平等」なら合衆国憲法上問題ないという発想が、長らくあった。ところが1954年になって、米国最高裁は人種を基準に仕分けることが、社会的平等を生むことなどあり得ないと断じ、公立学校における人種分離を違憲と判示した。

性差別でも似たケースがある。1976年、連邦最高裁判所は、弱アルコール性ビールを販売してもよい年齢制限につき、男性と女性の間で年齢格差を設けたオクラホマ州法を違憲と判示した。性別という仕分けで飲めるアルコール飲料の年齢制限がちがうことは、「女性は社会的にこういう存在であるべき」という女性蔑視的偏見に満ちた立法目的があるにほかならず、不平等で違憲であるという論理だ。

この「仕分け方」の考え方は、実はあらゆる事案を考察するのに有用である。昨年、米国南部の名門デューク大学でこんなことがあった。ある教授が学内向けに送ったメールにこう書いてあった。

「学校内では留学生は中国語による会話は慎み、100%英語を話すように」

このメール発信の直後から、「明らかな人種差別」「ではそういう貴方が中国に留学したとして、二度と英語を話さないのか」といった批判が相次いだ。この教授は問題のメール送信から数日で辞意を表明した。

真の一流は「相手は中国人だから」とはいわない

留学生に英会話を奨励するのもいいし、館内のホールで静粛を要請するのも正当だ。ただ、「中国語」で仕分けた途端、「真の目的はそもそも中国人蔑視では」「留学生の英会話能力向上なら中国人以外の仕分け方があるべき」といった議論になる。それだけ、生まれ持った、本人にはどうしようもないステータスで人を仕分けることは、やはり社会的に極めて危険な発想なのである。

ビジネスシーンでも、「○○人はやりづらい」などの会話は常に起こり得るし、それを体験した読者もいるだろう。だが少なくとも、筆者が現在運営する投資ファンド「ミッション・キャピタル」では、「交渉相手は中国系なので、これまでの約束を守ってくれるかは未知数だ。価格にもうるさいと思う。なにせ相手は中国人だから」といった発言をする人材には、職を辞してもらうことにしている。そういう仕分けしかできない人に、真の一流はいないと思うからである。