作品が子どもだとすると、監督は母親で、プロデューサーは父親のようなもの。作品を可愛がるのは監督もプロデューサーも同じ。でも、対社会の態度が違うわけです。「あばたもえくぼ」という言葉があるように、監督は作品を無条件に溺愛し、常に寄り添っていていい。

「世界のキタノ」の誕生の瞬間

しかしプロデューサーは、社会と作品の間に立って、あばただとわかっていながらも、「これはえくぼです」と言わなくてはいけない。作品が社会に存在できるように矢面に立って戦っていくのが、プロデューサーの仕事。あのとき僕は、武さんの監督としての可能性にすべてをかけて、資金集めに奔走した。大変だったけれども、それが「世界のキタノ」の誕生の瞬間だったわけです。

2019年10月に開催された京都国際映画祭の映画祭プロデューサーとして、オープニングセレモニーで西本願寺南能舞台に立つ奥山氏(右から2人目)。さまざまな形で、日本映画界の底上げに尽力を続ける。
2019年10月に開催された京都国際映画祭の映画祭プロデューサーとして、オープニングセレモニーで西本願寺南能舞台に立つ奥山氏(右から2人目)。さまざまな形で、日本映画界の底上げに尽力を続ける。(京都国際映画祭=写真)

このように奇跡のような結果を出せる人というのは、最後まで自分の価値観を信じきれる人だと僕は思っています。プロデューサーはその価値観に常に寄り添いながら、その目的に向かって最短距離で直線を引くしかない。大切なのは、作品に対して深い愛情が持てるかどうか。それが「才能に奉仕する」ということなんです。

才能に奉仕できるプロデューサーというのが何人も現れてくれば、映画業界が盛り上がっていくはずなんです。映画というのは、たくさんの人間が集まって、最も人間くさいところで1つの商品を作り上げるということだから、とにかく情熱が必要になってくる。前のめりでパッションを持って作業できるか、それとも萎縮してしまうか、そこが大きな差となります。

ところが昨今では、すでにベストセラーになっている作品を原作にしたり、スーパーアイドルによる映画化という組み立てをしたりするプロデューサーも目につきます。それでは、監督や作品が発掘される機会が減り、日本の映画業界は衰退に向かってしまいます。

柔軟性と責任感で業界の閉塞感を打破

ほかにも、日本映画界は複数の課題を抱えていると言われています。

そのひとつに「NetflixやAmazonプライムなど、新しい動画閲覧プラットフォームが台頭する今、映画業界は大丈夫なのか?」という声がある。動画配信が始まったことで業界が様変わりするのは当然のことです。いろいろな側面があるけれども、まずは競争力。2019年話題になった『全裸監督』にしても、ボタン1つで全世界に配信されていく。海外進出への垣根が低くなっている分だけ、作品としての競争力を上げないとダメだということです。