医師や医療機関は「有限」である

高熱という比較的わかりやすい症状の出ることが多い新型インフルエンザの場合でさえ、流行当時は無症状にもかかわらず検査目的に受診した人が少なくなかった。それを思い起こせば、今回のように、無症状から重症者まで多彩な症状である新型コロナの検査を希望して来院する無症状者は、膨大な数になることは目に見えている。

「会社を休むための診断書を」「検査の陰性証明書を」「出勤(登校)許可証を」という目的で医療機関に殺到すると、医師がそれらの書類作成事務作業で手一杯になり診療業務が著しく妨げられる。すなわち重症者が置き去りにされかねないのだ。重症者に適切な医療が、適切なタイミングで届けることができなくなって、重症者が死亡者となってしまうことになる。

すなわち、今後、一般医療機関でコロナ検査が簡易キットで可能になったとしても、就業や登校の条件として、検査のためだけに受診したりさせたりすることは、絶対にしてはならない。検査施行の有無、陰性陽性にかかわらず、少なくとも体調がすぐれない人は無理して出勤(登校)しない、周囲も無理させないということが、極めて重要なのだ。陽性なら出勤不可だが、陰性なら出勤できるなどと、検査を出勤の可否に利用することは非常に危険なことなのだ。

国民皆保険のわが国では、誰でも、いつでも、どこででも、自己負担さえ支払うことができれば、保険証一枚で簡単に医療サービスにリーチできる。そのためかもしれないが、ややもすると、医療資源すなわち医師などの医療スタッフ数、医療機関数、入院ベッド数、検査資源などが無尽蔵にあると勘違いされがちだ。

しかし当然のことだが、これらの医療資源は有限である。しかも長年、医療費抑制政策のもと、慢性的な人手不足の医療現場は、ただでさえ疲弊しきっている現状だ。その限られた医療資源の範囲で、どうやって新型コロナ重症者の命を救うのか、どこにどういう手段で、限られた医療資源を集中投下するのか、その議論が、これからは極めて重要になってくる。

アクセス、コスト、クオリティという医療の3要素がある。これらの3つを同時に満足させることは困難と言われている。つまり、国民皆保険下のフリーアクセスで、低コスト(医療費抑制政策)であれば、良質な医療は受けられないということだ。

この状況で医療機関に行くのは危険なだけ

現在の日本の医療がフリーアクセス、低コストながら、健康寿命トップクラスという良質な医療が行われていることは、奇跡と言える。いや、奇跡と言うのは正確ではない。実はその裏には、医療従事者がその命と引き換えに、極めて危険な過重労働をすることによって、なんとか支えている状況なのだ(この点については、ぜひ拙著『病気は社会が引き起こす』(角川新書)をお読みいただきたい)。

重症者を増やさないためには、いかに手遅れの人を増やさないかと、感染者数をいかに増やさないかに尽きる。だが「手遅れの人を増やさない」というのは、「軽症のうちに早めに医療機関で投薬されるべきである」というのとは違う。

なぜなら、この新型コロナウイルス感染症には、早めに診断がついても重症化を未然に防ぐ薬や治療はないからだ。

発症ごく早期の段階では「コロナウイルスが心配だから」との理由で医療機関に行くことは、メリットがないばかりか危険である。医療機関というのは、コロナに限らずさまざまな感染症の人が集まってくる場所、感染症の巣窟と言える場所だからだ。

これを、いかに多くの人に理解してもらい、行動に移してもらうことができるか。それが、今後の日本で新型コロナウイルスが猛威を振るうのか、それとも流行が大爆発することなく収束していくかの、非常に大きなファクター、分水嶺となるのではないかと私は考えている。

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