バブル崩壊後に触れた「神の手」

63年に入社、粟津工場へ配属された。粟津は、63年に「品質のコマツ」を目指すQC活動が始まった工場だ。担当は大型ブルドーザーの設計。やがて設計陣は大阪へ移る。次いで品質管理の担当となり、お客からの苦情や改善要求に対応する役となる。72年、突然、東京の本社社長室へ異動した。会社が輸出の本格化を目指し、大型ブルドーザーをその柱に決めた。海外でも競争力がある品質の製品を、急いで開発しなくてはならない。多くの改善対応の経験が、買われたらしい。

社長室で市場調査を始める。全国を5地域に分け、販売店やお客のもとにあるコマツの製品491台と競争相手のキャタピラー社の製品212台について、調べ上げた。1カ月の総稼働時間のうち故障でダウンしていた時間がどれだけあるか、どの部分に故障があったのか、修理にいくらかかったか。稼働日報もみせてもらい、詳細なデータを集める。

2カ月間、文字通り「能く見る」の昼夜が続いた。そして、売った後で修理の費用や時間がかなりかかることを知る。1万時間稼働させる間に、新車価格の8割も修理費がかかっていた。その半分までが、足回りの部分だ。そんなデータを生かし、翌年、改良したブルドーザーを送り出す。72年に20%だった輸出比率は、75年に50%を超えた。

2001年6月に、社長に就任する。バブル崩壊後、国内の建設機械市場では乱売合戦が続き、業績は最悪だった。その立て直しに、もちろん、坂根流を全面展開する。

当時、ある機種を日本と海外の7カ所でつくっていた。製造コストを分析すると、QCが浸透して自動化が進んでいた日本が、最も低かった。それなのに、営業利益率はキャタピラー社より6%も低い。最大の要因は、肥大化した本社の人件費など固定費の高さと子会社乱造のツケだった。ここでも、データに基づく「現実直視」から「合理的な解」へと進む。500億円の固定費削減、希望退職や出向者の転籍、子会社の整理を進め、750あった製品のモデル数も370に半減させる。

初年度こそリストラの負担もあって赤字を計上するが、翌年から社長を辞めるまで5年間、増収増益が続き、過去最高を更新した。無論、すべてが自分の力で達成できたとは思わない。設計、品質管理、販売、サービスと、コマツ主流の建機事業を上流から下流へと歩み、各分野に通じていきながら、全体像も把握できた幸運。そして、その歩みが、コマツが誇るQC活動やTQMの展開に沿って進んだことに、「神の手」のようなものも感じる。

「神の手」と言えば、大リーグで活躍中の松井秀樹選手が頭に浮かぶ。昨年秋、ワールドシリーズの第6戦で、地元ヤンキースタジアムの右翼席にホームランを打ち込んだ。テレビが、その場面を何度も放映した。その度に、画面に「KOMATSU」の看板広告が映る。CM効果は、10億円にもなる、とされた。先輩に「ラッキーだな」と言われたが、「いや、計算通り」と笑った。

松井選手はコマツ発祥の地・石川県の出身で、父親がかつてコマツで働いていた。03年にヤンキースへ移る際、応援の気持ちから広告を出す。では、球場のどこに出すか。東京ドームで打ったホームランをすべて調べると、右翼席の中段から上段へ入った数が多かった。それは、ヤンキースタジアムの2階席の前あたりになる。そこに、決めた。

狙いが当たったのは、松井選手が持つ宿命か、あるいは自分のツキなのか。不思議な思いを大事にして、松井選手の移籍先のエンゼルスの球場にも、広告を出している。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)