調剤薬局の若手経営者がフェラーリのお得意さん

——いつの間にか病院の前にたくさん並ぶようになった薬局の源泉は、私たちが無自覚に支払っていた薬局調剤医療費だった、ということですね。

風景の変化は、自覚的に見ていかないと気がつきませんからね。私にも「門前薬局」の風景に違和感を持つきっかけがありました。

数年前、散歩の途中で立ち寄ったフェラーリ販売店の店主と雑談していると、チャラチャラした若者が店員と立ち話している。とてもフェラーリに手が届く収入があるようには見えない普通の青年でした。不思議に思って、店主に「あの青年は、冷やかしなのかね」と尋ねると「お得意さんです」と答えた。

聞けば、調剤薬局の経営者だという。実を言えば、そのとき「チョウザイヤッキョク」が「調剤薬局」と結びつかなかったし、聞いたあとも、なぜ調剤薬局がフェラーリを買えるほど儲かるのか分からなかった。

撮影=プレジデントオンライン編集部

——実際にそんなに儲かるのですか?

たとえば、1人で門前薬局を開業したとして、月20日間店を開けて、1日30人患者がくるとしましょう。受け付けしただけで支払わなければならない調剤基本料、調剤の数によって算出される調剤料、お薬手帳の料金など、薬剤費を抜いた技術料だけで“3450円×30人×20日=207万円”。これを年収にすると2484万円。経費を抜いて年収1000万円だとしたら、フェラーリにも十分手が届く計算になる。

問題の根っこを見るには歴史的な視点

——なるほど。フェラーリを買いにきた若者をきっかけに「医薬分業」の歴史をたどり、薬局調剤医療費を削減する提言にまでいきついたわけですね。

医療や介護問題に限らず、いまの日本では、歴史的な視点が政治家にも専門家にも失われてしまっている気がします。社会がディズニーランド化してしまったと言えばいいかな。歴史の流れを見ようとしなくなった。

精神医療にしても「医薬分業」にしても、近代以降の連続性を見ていかないと問題の根っこは見えてこない。そもそもわれわれが日本人という意識を持ったのは近代――明治以降ですから。物事の本質をつかむには、明治時代に日本という空間が誕生して、日本の近代がスタートした時点にまで立ち返るしかない。

国民国家としての日本をどうするか

いま日本のIT業界の人たちが盛んに「電子国家」を掲げるエストニア詣をしているでしょう。エストニアは、公的サービスの99%が電子化され、24時間年中無休で利用でき、住民票などの変更も選挙も確定申告もパソコンやスマホでできるそうです。マイナンバーカードのようなIDカードが1枚あれば、免許証も健康保険証も、お薬手帳も必要ない。

でも、エストニアを礼賛する人たちには、近代への目線が欠けている。視点が軽いと言わざるをえません。