「思想のための自殺」を遂げつつある
(朝日新聞『34歳女性が首相、日本との差は? フィンランドの要因』(2019年12月22日)より引用)
フィンランドはいままさに、国内に高まりつつある反リベラリズム(「反・多様性」「反・寛容性」)の機運を挽回すべく、最後の戦いを開始した。若い女性たちをリーダーに据え、自由・平等・博愛・多様性・寛容性・男女平等――まさに、2010年代西欧リベラリズムの総決算ともいえる布陣で、これを迎え撃とうとしているのだ。
だが、そうしたメッセージ性を強く押し出すほど、野党第二党にまで迫った国民主義政党「真のフィンランド人」が活気づいてしまうだろう。なぜなら、そうした「政治的ただしさ」のメッセージ性に辟易している人びとが「真のフィンランド人」の支持者層となっているからだ。
いかに「政治的にただしい」メッセージ性を有して思想的な勝利を収めようが、最新の統計によればフィンランドの出生率はもはや日本を下回る見込み(※)となっており、そのような国や社会には人口動態的な持続可能性が乏しい。まさに「思想のための自殺」に他ならないのだ。
※フィンランド統計局のデータによれば、2018年の合計特殊出生率は1.41。日本は1.42だった。
(フォーブスジャパン『最高レベルの子育て政策も無駄? 急減するフィンランドの出生率』(2019年10月19日)より引用)
リベラリズムと「人口の確保」は相性が悪い
リベラリズムは、リプロダクティブ・ライツを擁護し、産む自由・産まない自由をそれぞれ保障し、政治権力がこれに介入することを強く批判する。
だが、リベラリズムが愛してやまない「個人の自由・人権」を担保するのは(どのようなきれいごとを述べようが、実質的には)国であり、その国を維持するのは人口動態であるという致命的な矛盾を内包する。美しくただしい思想も権利も、それを担保してくれる国がなければ意味がない。そして国は、自分たちの生殖によってしか維持できない(あいにく移民は彼ら西欧人の思想信条や人権概念を必ずしも受け入れるとはかぎらない)。
ところで、なぜ旧来の価値観や伝統的宗教観では、女性の権利や人権が男性のそれに比べて往々にして低く見積もられていたのだろうか――西欧リベラリズムは「人間社会には根源的に女性蔑視が根付いていたからだ」と回答したが、本当にそうなのだろうか。「女性が男性並みに経済的・社会的に優位性を獲得したとしても、しかし男性のようには他人を扶養しようとはしなかった(からこそ、そんな共同体は生産人口が長期的に持続できず、結果的に女性蔑視的(だが、生産人口が安定している)集団に淘汰されてきた)」ということだったとしたら。
西欧人が自らの思想によって「産まない自由」などと言って子どもを作れなくなり、女性の人権(そもそも人権という概念が西欧的なものであるため、これを非西欧に当てはめて用いるのは適切ではないかもしれないが)を制限しながら、人口を安定的に再生産する思想(代表的な例がイスラム教の道徳的規範に基づくコミュニティであるだろう)との人口動態的な競争に敗れ去ろうとしているのは、その仮説の「答え合わせ」を示唆するもののように思える。