「ジープ」が日本であまり普及しなかった理由
四輪駆動車の歴史は自動車自体のそれよりもやや遅れて始まっている。世界で初めてガソリンエンジンを使用した四輪駆動車は、1902年に生まれたスパイカーで、オランダのスパイカー兄弟によって作られたものだ。
前進が三速で後進が一速のトランスミッションを持ち、現代のフルタイム式4WDと基本的には同じ仕組みとなっている。
その後、第一次大戦、第二次大戦を通じて、戦地の移動用として四輪駆動車は使われた。そして、1941年、アメリカにジープが生まれる。
ジープはアメリカ陸軍の軍用車両として各社が試作したものから始まり、元々はバンタム社が設計したものだった。
しかし、ジープを量産したのは自動車会社としてバンタム車よりも規模が大きいウィリス、フォードの2社だった。
ジープは第二次大戦中、活躍し、戦後は日本国内でも進駐軍が使っている。ただ、日本では普及したとは言えない。車体が大きく、しかも重いので操作性に難があり、乗り心地がよくなかった。
また、悪路を走るだけに壊れやすく、修理しようとしても、部品をアメリカに発注しなければならなかったのである。
東北電力の保守マンたちが欲していたのは、ジープよりも操作性がよく、乗り心地もよく、そして、故障したら部品がすぐに手に入る国産の四輪駆動車だった。
「走行性能はまあまあだがとにかくうるさい」
宮城スバルの整備課の人間たちはFF車を四輪駆動にするためにジープを参考にした。しかし、最初の試みは大失敗。手作りの四輪駆動の機構を組み込んでみたら、前輪と後輪が逆回転して、車体が引きちぎれそうになったのである。
その後も苦労を重ね、彼らはなんとか頑張って、やっとできた一台の試作車を富士重工の本社に持ち込んだ。
本社の開発担当が試しに乗ってみたところ、「走行性能はまあまあの仕上がりになっていたが、とにかくうるさかった」というのが感想だった。
その後、四輪駆動車については宮城スバルではなく、本社のスバル技術本部が直接、車体設計、サスペンションなどをすべて見直すことにした。
当時、ジープタイプの四輪駆動車は国内でも販売されていたが、女性がスカートをはいたまま乗れるような乗用の四輪駆動車は存在していなかった。
そこで、技術陣は「運動性のいい、誰もが乗れる四輪駆動」を目指したのである。
ただ、そうはいってものんびり開発している余裕はなかった。
東北電力は「早く作ってくれ」の一点張りだったので、1年ほどで作業を行い、1970年にはスバル1300Gをベースにした11台を納車した。噂を聞いて、発注してきた防衛庁にも1台の四輪駆動車を納入した。