いまは情報のインフラが整っています。むしろ情報過多で、たいていの情報はすでに多くの人に共有されていると考えたほうがいい。誰でも簡単に正解にアクセスできる環境では、正解を話すことの価値は相対的に下がります。それとは対照的に価値が高まってきたのは、その人の見方や感じ方を話すこと。正解とは程遠くて、妄想に近いものであっても、自分の言葉で語り合うほうがずっとクリエイティブで、新しい発見につながるのです。

時事通信フォト=写真

アメリカのトランプ大統領、イギリスのボリス・ジョンソン首相に象徴されるように、いま世界ではアクの強い人物が政治家になって国を率いています。個性的な政治家が支持されるのは、けっして正しいことを言っているからではないでしょう。トランプ大統領もジョンソン首相も発言することで良くも悪くも従来の秩序を揺るがし、ゆえに彼らは支持されています。いまは正しいかどうかより、何かしらの動きをつくることに価値が出る時代なのです。

そうした傾向が求められるのは、会話も同じです。学者のように正しい情報を提供したり、評論家のように指摘をしたりするだけではみんな聞いてくれません。それどころか、口だけじゃないかと人をイラつかせてしまうおそれもある。それよりも現実で動きにつながる会話ができる人のほうがずっと好まれます。

たとえばタピオカブームについて、ブームの変遷を語るより、「あそこのタピオカ屋に行ってみよう」と行動を促したり、「行ってみたらおいしかった」と自らの経験を話す。そうやって行動と紐づけられる会話が、現代的な意味での「いい会話」だと思います。

確実性の高い話だけしていてはダメ

どうして自分の見方や感じ方を話すことが、より価値の出る時代になったのでしょうか。

世の中はインターネットによって情報の共有が進んだ一方で、クラスター(集団)化という現象も起きています。かつてマスメディアが情報を握っていた時代は、みんながマスメディアを見ていたため、誰とでも話ができました。しかし、世の中が細分化されていくと、相手と話す前、お互いにどのクラスターに属するかを確認しないと、会話が成立しにくくなってきました。

異なるクラスターの人とは話題や言葉が違うから、話すのは億劫だと感じる人もいるでしょう。しかし、僕は異なるクラスター同士で出会ったときにこそ、最もおもしろい会話が起きると考えています。