実際に私自身もそうしてきました。数十年来の友人が何人かいますが、みな、たまに手紙をやりとりするくらいで、顔を見るのは数年にせいぜい1、2回、それも約束をしてというより、講演や取材などの旅先で偶然出会うといった感じです。すでに鬼籍に入られた永六輔さんや小沢昭一さんとも、そういう付き合い方をしてきました。だから、50年以上仲間でいられたのでしょう。『荘子』にも「君子の交わりは淡きこと水のごとし」とありますが、本当にそのとおりです。蜜や油のような濃い関係というのはかえって続かないものなのです。
人生の山を下る醍醐味を味わう
人生はよく「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」の4つの季節でたとえられます。そして、孤独の感じ方も、それぞれの時期で変わってくるのが普通です。まだ個が確立していない青春では、ロマンチックな孤独感が非常に強い。また、このころの孤独は実に苦しいものです。働き盛りに当たる朱夏の時期になると、今度は組織のなかや起業をする際などに孤独を意識するようになります。次の白秋は、50歳から75歳くらいまでですが、まさに人生の収穫期。それまで厳しい山道を必死の思いで登ってきた人も、ここからはようやく下山道です。
景色を楽しみながら、安全で優雅にゆっくり人生の山を下っていく。社会的な地位や名誉といった下山に無用なものを手放すことで、どんどん身軽になり人生の自由度が増していきます。もちろん体力が衰えたり病気になったりもしますが、それも自然の流れと割り切って受け入れれば、そんなに悪いものではありません。私は「アンチエイジング」ではなく、いつも「グッドエイジング」と願っています。
ここまでくると、孤独も楽しめるようになります。そうしたなかで、私が実践してきたのが「回想」です。旅先などで柔らかな春の陽だまりのなか1人ベンチに座り、静かに目を閉じて、「あのときあの人とこんな話をしたな」だとか、「あの旅先でこんな友人と偶然出会ったな」などと、過去の楽しかったことを一つひとつ頭に浮かべてはかみしめる。これこそが人生の醍醐味だといっても過言ではありません。
白秋はそうやって後ろを向いて生きることが許される素晴らしい季節なのです。だから、思い出の品々はできるだけ多いに越したことはありません。最近は「断捨離」がブームですが、何でもかんでも捨ててしまったら、過去を振り返る貴重な「よすが」が失われてしまうので、私は断捨離には反対です。
玄冬は古代インドの区分ですと、死に場所を求めてガンジス川のほとりに旅に出る「遊行期」に当たります。この時期の孤独は、人生の最期をどのように締めくくるかを考えるためのものです。どんな死に方をしようと、人が死ぬときは1人。そういう意味では「誰もが孤独死なのだ」と私は覚悟しています。ただし、周囲に迷惑をかける死に方は推奨できません。看取る人がいないならアパートなどで死なず、市区町村の役所の前で行き倒れるくらいのことは、考えておいたほうがいいのではないでしょうか。