人生の価値観を変えた欧州への留学

【田原】僕はまだ小野さんの考えが理解できないな。そこで小野さん自身のこれまでの歩みについても聞いてみたい。高校時代に大きな転機があったそうですね。

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所へ入社。テレビ東京を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。著書に『起業家のように考える。』ほか。

【小野】受験に失敗して行きたかった高校に行けず、ちょっとふてくされてたんです。たまたまそのタイミングで母がドイツのミュンヘンに留学することになって、一緒についていきました。よかったのは、ドイツでは高校生の留年が普通にあったこと。あと、上下関係もなくて、外国人でも仲間として接してくれるのも新鮮でした。日本とは違う価値観に触れて、レールを外れてもいいんだとわかったことは大きかったですね。

【田原】帰国して大阪大学の工学部に入る。どうしてですか?

【小野】阪大に入ったのは、もともと建築がやりたかったから。でも、阪大は1年生のときの成績で専攻が決まり、僕は成績が悪くて希望のコースに入れませんでした。それでも建築家になりたくて、建築家の事務所に勉強させてもらいに行ったりしていましたが、長続きしませんでした。

【田原】建築家への夢を諦めたわけね。

【小野】そうですね、いったん諦めて、普通の就職を考えました。でも、アイルランドに留学してまた考えが変わり、帰国して建築科のある京都工芸繊維大学に入り直しました。

【田原】どういうこと?

【小野】就職する前に、英語を勉強するためにダブリンに留学したんです。向こうで「自分は建築を諦めて英語を勉強するために来た」と話したら、友達から「なんで? 建築やりたいなら入り直せばいいじゃん。欧州だと普通だよ」と言われまして。ハッとなって、翌日には日本の親に電話。留学は1年の予定でしたが、急遽帰国して大学に入り直しました。

【田原】やっと建築家になろうとしたのに、結局は広告代理店に入る。

【小野】大学3年生のときに、就活に年齢の制限があることを初めて知りました。建築家になるつもりでいましたが、もし就職するなら僕は年齢的にギリギリ。それなら社会勉強も兼ねて就活だけはしてみようと思って始めてみたら、博報堂に受かってしまった。建築をやるために大学院に進学するかどうか迷いましたが、受かったということは何か縁があるのかなと思って就職を選びました。

【田原】博報堂では最初、どんな仕事をしていたのですか?

【小野】空間デザインをする部署で、イベントを企画したり、店舗や企業のミュージアムをつくっていました。この仕事は面白かったですが、せっかく広告代理店に入ったのだから、スキルの1つとしてコピーを書くことを身に付けたいという思いもあって、自分から希望してコピーライターになりました。

【田原】2011年に「YOY」を立ち上げた。これは何ですか?