いまや大きな市民権を得ている「エコ」もそうです。エコというのは二酸化炭素の排出量を規制するというように、地球環境のためにそれまで自由だったものを制限することです。ゴミの分別も自由の制限の一つです。しかし、エコのため、地球の資源を守るためという大義名分が立てば人々は喜んで協力する。誰もメタボやエコがまさか統制とは思っていないでしょう。しかし、新しい時代の統制経済はそういうところからスタートして、いずれ個々人の生活に及んでくる。

タバコ一つ買うにも厄介な手続きが必要になり、少年法や道路交通法が改正されて重罰化の傾向はますます強まっています。戦後、野放図にされてきた自由がどんどん縮小され、規制が強化される方向で時代は推移してゆく。「メタボ」や「エコ」のようなゆるい言葉をまぶされると国民は賛成するから、国はどんどん進めてゆける。この流れを先読みすると、やはり時代は怖い方向へ向かうのではないでしょうか。

平安末期、短い間ですが、都が京都から福原に移されたときがありました。その時代に藤原定家が詠んだと思われる言葉があります。

「旧都は荒れ果て、新都いまだならず」。

福原での新都造営はなかなか進まず、京都は荒れ果てたまま。空き家になった公家の家に浮浪者が住み込んで、荒涼たる有り様だった。

時代が下って1930年代、共産ソビエトは当時の進歩的な知識人たちの憧れの的でした。彼らにとっての新都だったわけです。それがイリュージョンであり砂上の楼閣だったことは自明です。新都はもはやない。しかし旧都である資本主義もマルクスの予言通り、恐竜が滅びるように地響きを立てて崩壊しつつある。横倒しでもがき苦しむ過程で、たくさんの草や木がなぎ倒されるように大きな犠牲を強いられている。

戦後の焼け跡、闇市の中で苦しい生活をしていても日本人の目には希望の光があった。平和国家、民主主義、経済成長……。だけどいまは何があるのか。いままさに私たちは新都なき旧都の荒廃に直面しているのです。

(大沢尚芳=撮影)