「鬱」は生命力の源

五木寛之●作家
五木寛之●作家

「鬱」の時代を後ろ向きに捉える必要はありません。鬱はもともと「草木の茂るさま」が第一義です。「鬱蒼たる樹林」とか「鬱然たる大家」とか「明治維新は鬱勃たる青年の野心によって生まれた」というように、勢いよく生命力が溢れるさまを「鬱」という。その内包した生命力が蓋をされ、エネルギーを放出する機会を得られないまま、沈殿し、発酵してブクブクと泡立つさまが「鬱々たる気分」という第二義です。ですから心の中に鬱を抱えた人は、生命力やエネルギーに溢れた人であって、それが抑圧されて十分に発揮できないために鬱々たる気分になっているわけです。

「鬱」の中には3つの要素が秘められています。一つは「憂」。日本の未来を憂える。教育の明日を憂える。地球環境を憂える。「憂える」のは大事なことで、心の中になんとも言えない「憂い」が湧き上がる。これがなければ社会は進みません。いまの若い人たちは自分探しなどと言っていますが、ほかに向けて憂えたり、自分について憂える熱い気持ちが欠けていると思います。

もう一つは「愁」。「酒は愁いを払う玉箒」というときには「愁」の字を使います。「愁い」は人間の実存的な存在というものを体から心が感知したときに生じる感覚です。

感じる能力は誰にでもあります。針を刺せば痛いし、火箸に触れれば熱い。人間の体というのは指先から髪の毛の一本に至るまで、「生きている」という実存的な状態を心に向けて、瞬間、瞬間、語りかけています。「いま、あなたは無理をしているよ」とか「こんな無理は続かない」と体が心に語りかけている。

ふとした瞬間にそれを感じて、人は何ともいえない不思議な「愁」という感覚を覚える。人生の儚さ。老い。生命の実感。自分は有限の命を生きていると感じる。そんなときに「愁」という感情が起きるのです。