もちろんこれは運動競技ではなくて音楽なのでそれでもよいように思えるがさにあらず、実は運動競技と同じような部分がこれにもあって、どういうことかというと、上手な人が楽しんで演奏すると、これを聞く人もそれに比例して楽しくなるのだが、あまり上手でない人が楽しんで演奏すると、これを聞く人はそれに反比例して苦しくなる。

だからほどほどに楽しんでくれればよいし、どちらかというと苦しんでやってくれた方が聞く方としては少しは楽なのだけれども、先ほど申し上げた、楽しむこと=善、苦しむこと=悪という考えが染みこんでしまっているので、ここを先途として楽しんで演奏し、聴衆は塗炭とたんの苦しみを味わうことになってしまうのである。

楽しまないと敗者、という強迫観念

そしてその考えが広がった結果、人は人生もまた楽しまなければならないと、強迫的観念を抱くに至り、それはやがて、人生を楽しんだ者=勝者、人生を楽しまなかった者=敗者、という考えになり、人は競って人生を楽しもうとし、また、インターネットに写真や動画を上呈することによってそれを他に訴える・主張するようになり、それがまた強迫的な観念を亢進こうしんせしめた。

しかしこれがひとつの欺瞞ぎまんであるのは間違いなく、なんとなれば本当の楽しさのただ中にあるとき、人は、自分はいまどれほど楽しいか? と考えることはないし、これを記録して証拠を残そうとも思わないはずだし、そんな楽しみは求めて、かつまた、金を払って得られるものではなく、不意に予告なく訪れるものだからである。

しかるにこうして、楽しまないと敗者になる、という恐れから、貪欲に求められる楽しみはそのようなものではないのだが、一度、そう思ってしまうとなかなかそれを拭い去ることができない観念・思い込み、というのがいくつかあって、「人生は楽しいもの、楽しむべきもの」という考えはそのなかでもっとも強固なものであると言えるのかも知れない。なぜならそれは、勝ち負け、損得、という社会的動物としての生存戦略にかかわってくる問題であるからである。

必要なのは認識改造

しかしそう考えたところで、いやさ、そう考えるからこそ、これを「人生は楽しくないもの」とする認識改造が必要で、なんとなれば、誤った認識に基づいて行動すれば当然の如くに敗北するからである。といって楽しいことを否定する必要はない。生きていれば楽しいこともあるだろう。