「人生は苦しいもの」と考えを改める

では、どのように改めるべきか、というとそう、そも人生は苦しいもの、と改めるべきなのだが、しかしこれまで、楽しいもの、または、楽しむべきもの、と考えていた人が一気にその段階に進むのはさすがに苦しいだろう、なのでとりあえず現段階では、

そも人生は楽しくないもの。

に留めておくことにしよう。しかしこれにしたって承服できぬ、という人が多くあるのかも知れない。というのは例えば、運動競技の国際的な大会に出場するために外国へ出掛ける選手が取材に応じる際などにニコニコ笑って、「楽しんできます」など言っていることからも知れるであろう。

普通で考えれば運動競技などというものは日常生活においてまずあり得ない負荷・負担を身体に掛けるのだから苦しいに決まっている。200キロのバーベルを持ち上げる。100メートルを10秒で走る。なんてことは、おけさやかっぽれを踊るような調子でヘラヘラ楽しんでいたら絶対にできない。

そうするためにはもって生まれた天分や素質に加えて、血のにじむような努力、鍛錬が必要であろうことは傍で見ていても容易にわかる。そしてそんなことをしてきたなかでも選びぬかれた、えげつない御連中が集結するのが国際大会で、余程の天才でない限り競技を楽しむ余裕などないだろう。

試合を楽しめば優勝できる、という倒錯

にもかかわらず、「楽しんできます」と言うのはなぜか。

それはそんな競技をやったことのない私はわからないが、推測するに、そうしたものも、そのぎりぎりの肝要を究めれば或いは競技のその最中、瞬間的に自他も生死も超えた涅槃ねはんの境地に到達し、「たのしー」と思うことがあり、そうした瞬間を知った人が後日、その瞬間のことを思い出し、「緊張もプレッシャーもなくただただ競技を楽しみました。そしてふと我に返ると一位になっていました」と語ったのを聞き、他の競技者がこれを真似まねたのではないだろうか。

しかし、真似はしょせん真似で、いくら楽しもうとしても、実際にはなかなか楽しめず、苦しかったり嫌な思いをする。なんとなれば、諸条件が同じなら同じことをして同じ結果が出るだろう。けれども諸条件が違う。生まれ年も性格も体つきもなにからなにまでひとつとして同じところがない。だから同じことをやっても同じ結果が出るとは限らない。