誰に向けられた“愛”なのだろうか

貴月は、「帰国後、高倉と真剣に向き合いました」と書いている。高倉の伴奏者(そして伴走者)になろうと決意したというのだ。

そのとき、「仕事場では(撮影)で綺麗な方々に囲まれるので、普段は、できるだけほっとしていたいから、『化粧をしないでください』」といわれたそうだ。

以来17年間、散歩したのは一度きりの、高倉と一緒の生活が始まったらしい。

これを読む限り、高倉が彼女にれて、結婚届という紙きれなどなくても一緒に暮らしたいと積極的だったと思われる。

だが、この本の中には、夫婦らしい会話や、男と女が一つ屋根の下に暮らす生々しさがほとんど描かれていない。

あえて触れなかったということも考えられるが、タイトルにある『高倉健、その愛。』の“愛”は、誰に向けられた愛なのだろうか。

『週刊文春』(11月14日号)で、阿川佐和子の対談に出て貴月は、「その愛」についてこう話している。

「愛とは魂の共鳴じゃないかと。あくまで私論ですが、人はそれぞれ異なる周波数を持っていると思っています。高倉は微妙なものから振れ幅が大きいものまで頻繁に周波数が変わります。その周波数に合わせられる力が愛」

彼女の「ごまかす力」は一流と見える。さすがに「聞く力」を誇る阿川も、最後の「一筆御礼」でこう書いている。

「貴月さんのお話を伺えば伺うほど、納得できたりできなかったりの繰り返しで、もやもやとした余韻がいまだ心の片隅に残っております」

高倉が亡くなる時の描写も案外さらっとしている。

「夜明け前。高倉は、病院のベッドで最期を迎えました。高倉を看取り、張り詰めていた緊張が解けぬままでしたが、看護婦さんから『ご一緒になさいますか』と声をかけていただき、一緒に体を清め、そして身支度を整えました。(中略)高倉の穏やかな顔を見つめながら、『私はお役に立てたでしょうか』。悲し気な顔にならないよう努め、心の対話をはじめていました」

この日は、映画『鉄道員』の亡くなった娘・雪子の生まれた日でもあった。

夫婦同然に暮らしていながら“匂い”を感じさせない

出会いと別れを除くと、ほとんどが高倉の出演した映画の話である。特に『南極物語』についてのものが多い。

「今度の南極ロケで人生観が変わりましたね。何よりも、死を身近に感じて命に限りがあることを痛感しました。(中略)残りの人生の“持ち時間”があまりないなということ。残りの人生でどれだけのことができるのか、結局生きるとはどういうことか、南極ではそんなことばかり考えていました」(読売新聞1983年1月8日付)

その他には、俳優や監督たちの思い出、『鉄道員』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞したときのスピーチ、巻末には高倉が好きだった映画を並べて、彼の一口コメントまで載せている。

クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』では、「日本版ができるんだったら、やってみたい。これはやられた!」といったそうだ。

というわけで、内容は盛りだくさんではあるが、高倉健の身近にいた人間の覚書のようなものである。