「眼差しの奥にある“何か”がひっかかりました」
出会いは1996年3月半ば。フリーライターとして香港で女性誌の取材をしていた彼女が、ホテルの中華料理店に入ろうとしたとき、テーブルで談笑している高倉健を見つけた。
カメラなどの機材を持っていたため、レストランの外で待つことにした。しばらくして隅のテーブルで食事をしていると、高倉健が近づいて来て名前を名乗り、「今日は、お気遣いいただいて、どうもありがとうございました。良い仕事を続けられて下さい」。そういって離れていった。
その時彼女はこう感じたそうだ。
「私は高倉さんの眼差しの奥にある“何か”がひっかかりました」
帰国後、彼女は、香港でのお礼と、そのとき取材した女性誌を高倉健に送る。高倉からも自分の著書とイタリアを旅した記事が掲載されている雑誌が送られてくる。旅に出ると絵葉書を送り、短い返事をもらうというやりとりが1年近く続いたという。
転機はテレビのプロデューサーとして彼女がイランへ行くときに訪れた。
高倉は、『ゴルゴ13』(1973年の日本・イラン合作映画)の撮影でイランへ行ったが、「『イスラム圏ですから、女性には厳しい制約があります。スタッフと一緒でしょうけど、充分に注意を払って仕事をしてください。以上です』というシリアスな助言を頂きました」(小田貴月)。
紙一枚で大事な縁が切れてしまった
首都テヘランへ着くと、高倉から「無事に着かれましたか」と電話が入る。高倉はああ見えても、好きになった女性にはマメに電話をしたり、手紙を書いたりすると、彼の死後、何人かの女性たちが語っているが、その通りのようだ。
その時、貴月によれば、高倉は電話でこう話した。
「『ゴルゴ13』の撮影前の思い出は僕の人生のなかでも、鮮明なんです。(略)僕はその二年前、縁のあった人と、別れた(離婚)んです。その縁のあった人は、とても好いていた人でした。でも、時が経つにつれて……。それでも縁は切れないと思っていたんです。ある日、その縁のあった人の弁護士から紙が届けられて、それでお終いでした」
「縁のあった人」とは、江利チエミのことだ。離婚届という紙一枚で大事な縁が切れてしまった。そして高倉はこう続けた。
「以来、僕は紙を信じなくなりました。本当に気持ちが通じ合っていれば、むしろ紙なんかいらないだろう、紙に縛られるもんかって、頑なになりました」
その後、カスピ海沿岸の町へ向かう途中、エンジントラブルが発生して、ホテルに到着するのが5時間遅れてしまった。
だが、電話回線が不安定で、高倉に連絡できず、ようやく通じたら、
「こんなに心配しているのに、どうして連絡できないんですか!」、そう怒鳴られ、「すぐに帰ってきなさい!!」といわれたそうだ。
彼女が拒否すると、その後、電話はなかったという。
10日経って、「コレクトコールをください」というFAXが来る。電話をすると、「もう二度と、イランに行って欲しくありません。続きの話は、日本でできますか?」と聞いてきた。