生涯修行し、成長を続ける

「私には1人だけどうしても好きになれない人がいました。人に慈愛を説く僧侶として失格です。彼を前にすると心の針が、マイナスの方向に振れるのをどうすることもできなかった。行の間、山道を歩きながら、そういう自分を変えようとしました。

参詣客は近隣のみならず、新潟など遠方からも訪れていた。護摩修法の後は法話がある。厳しい修行生活に裏付けられた平易で実効性がある内容だった。この日は懺悔の話。自らの罪を心から懺悔することが、感謝の気持ちを育て人生を豊かにする、と。

大自然の中を何カ月もたった1人で歩き続けると、心はどんどんピュアになります。人がいないから。感情の対立が起きないから。お弁当を食べてると、鳥が肩にとまるんですね。野鳥が警戒心を抱かなくなる。それくらい心が澄んでくる。そうするといろんなことがすーっとわかってくる。あの人が嫌いだなんて、やっぱり自分はなんて器が小さかったんだろうと気がついて、懺悔の涙をぽろぽろ流す。

なのに4カ月の行を終えて日常の生活に戻って、その人に会ったらまた『嫌いだ』って思ってしまう。そこが人間なんです。頭と心は違う。山の中でいろいろ思考して悟ったと勘違いする。頭で知っただけ、物知りなだけ。医師の国家試験通ったばかりの若い医師のようなもの。注射下手な人いるでしょう(笑)。

だから簡単じゃないんだけど、諦めずにまた翌年、行に入ったらやるわけです。なぜ、あの人が好きになれないんだろうと。うまくいかなくても仕方がない。ただ自分の欠点はいつも心にとめて、克服しようとし続けること。嫉妬が起きたら、意志の力でねじ伏せる。毎日続けていれば、いつか必ずできるようになる。遠回りのようで、それがいちばんの近道。やるかやらないかの問題なんです。実を言えばその人を好きになれたのは、千日回峰行を満行してから6年後でした。

どんな激しい修行をしても、心は簡単には変えられない。修行は一生涯続く。私もそうですが、皆さんも同じです。だけど悪いことじゃない。それは人間が生涯成長し続けられるということだから。克服しようという気持ちさえあるなら、嫉妬心は人の心を磨く砥石になるのです」

護摩修法で感じた、心がすっきり洗われる感覚を思い出した。法力という言葉がある。修行を積んだ僧侶が持つ、不可思議な力を意味する言葉だ。超能力というような荒唐無稽な話ではないのだろう。それはおそらく、たとえば人の背筋をすっと伸ばさせるような、前向きに生きようという気持ちにさせる力なのだと思う。そういう意味での法力を、塩沼大阿闍梨は確かに放っていた。

塩沼亮潤
福聚山 慈眼寺住職・大峯千日回峰行大行満大阿闍梨
1968年、仙台市生まれ。東北高校を卒業後、吉野の金峯山寺で出家得度。99年に大峯千日回峰行を満行。その後、仙台市・秋保に慈眼寺を開く。『人生生涯小僧のこころ』などの著書がある。
(構成=石川拓治 撮影=永井 浩)
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