この歴史観は、天皇という日本独自のシステムに切り込んだ僕の処女作『天皇の影法師』(83年)をはじめとする後の作品につながっていて、網野さんには同書の文庫の解説も書いてもらっています。
『冷血』は僕にとって「新製品」だった
さて、こういった教養を身に付けたうえで何を読むべきか。まずは作家としての僕の殻を破ってくれたと言える、トルーマン・カポーティの『冷血』です。いまでこそノンフィクションの時代と言われますが、当時の日本はそんな言葉も存在しない、私小説全盛の時代でした。ただ、私小説の題材である結核も貧乏も社会から消えてしまい、新しい方法論への期待も高まっていた。そこに登場したのが『冷血』でした。
カポーティは米カンザス州の寒村で発生した残虐な殺人事件に興味を抱き、加害者にインタビューしながらその心情へと深く入り込み、ひたすら事件のディテールを再現した。作家の想像力を超える世界がそこにあったからです。『冷血』は、軽くなった「私」へ衝撃をもたらすものでした。僕にとってまさに「新製品」でした。
次に挙げるのは、カズオ・イシグロの代表作である『日の名残り』。20~30年代のイギリス貴族社会とそこで働く庶民の日常が舞台となっている本作は、ある貴族の館の執事長と女中頭の切ない恋の物語です。しかしその時代背景として、第2次大戦へと向かう描写が丹念に書き込まれている。館には、後にイギリス首相となるチャーチルやナチスの高官も訪れ、そこで繰り広げられる秘密会議はヨーロッパの正史そのものです。
つまりこの作品には、歴史という「公の時間」のなかに「私の営み」が叙情的に描かれている。本作はノーベル文学賞を受賞した作品ですが、一方でなぜ、日本の村上春樹はノーベル賞を取れないのか。それは、この「公の時間」がないから。70年に三島由紀夫が自決して以降、日本の文学は戦後民主主義のなかで「公」を避けるように「私」に向かい、「私だけの空間」になっているのです。
僕は「公」を取り入れることでしか、日本の文学の閉塞感を脱することはできないと考えていました。その「公」への眼差しが日本の官僚主権的な構造を告発した『日本国の研究』につながり、それを評価してくれた時の総理、小泉純一郎さんによって僕が行政改革・道路公団民営化の道へと歩を進めることになりました。教養をもとに現状を認識したら、自ずと解決策を提示することになっていたわけです。