丸山眞男は戦後民主主義の思想を牽引した政治学者で、いまでも政治思想史の権威。『現代政治の思想と行動』や『日本の思想』を大学で読んだという人は少なくないでしょう。日本の政治学に「近代」を持ち込んだのは東京大学法学部名誉教授だった彼です。

戦前は軍国主義で戦後は平和主義

その丸山の傍系の弟子にあたるのが、橋川文三。1972年、1度、仕事をしてから僕が25歳のときに明治大学大学院に入学したのは、近代政治思想史を専門とする橋川先生に教えを請うためでした。彼が60年に上梓した『日本浪曼派批判序説』に感銘を受けたのです。

作家 猪瀬直樹氏

同書は「戦前の若い学生たちがなぜ戦争に積極的に参加したのか」を説明した作品ですが、出版当時、戦前は軍国主義で戦後は平和主義という単純な二分法の見方が大勢だったなか、橋川先生は「戦前の学生も戦後の学生と同じようなある種の過激な一体感を求めていた」という共通項を分析した。それがすごく信用できたのです。その延長上で僕は、『昭和16年夏の敗戦』を書くことになります。

アメリカと戦争をしても勝てるわけがないのに、なぜ無謀な戦争へと突入したのか。戦前戦後で人間が変わるわけがないのだから、冷静にシミュレーションしていたはずだと考えました。調べてみたら、41年に内閣直下の総力戦研究所という機関でシミュレーションが行われ、実際の戦争通りの結果が導かれていたことがわかった。当時、陸軍大臣であった東條英機もこの報告を聞いています。その後、東條内閣が発足するけれど、確固とした意思決定がないまま、戦争に突入していくことになる。決断して始めた戦争ではなく、「不決断」により始まってしまった戦争だったのです。

昭和16年夏の敗戦』はその意思決定のプロセスを解き明かした作品です。先に述べた官僚主権につながる話ですが、日本には国家の意思決定の中枢というものがない。天皇は「空虚な中心」で、明治維新のときから中枢が不在になる可能性があるという制度的な不備がありました。それを元老たちが人治でカバーしていましたが、元老が死んでしまうと、縦割りの官僚機構だけが残った、というわけです。

3人目の師である網野善彦は、僕の歴史観という殻を最初に破ってくれた存在です。彼は、日本が江戸時代まで農業社会だったというこれまでの歴史観をがらりと変えた人。江戸時代における日本の人口の8、9割は百姓であると考えられていましたが、「百姓」という言葉には農民以外の生業(製造業や流通業など)に従事する人も含まれていて、そういった人たちが、当時の社会の最上層にいる天皇皇族や神社仏閣ともモノを通じて結びついていたことを紐解いたのです。