ユダヤ人差別がはびこる新興住宅街で育つ

ユダヤ人差別は幼いビリーにも降りかかった。

「僕が6歳くらいのころ、向かいの家の年下の女の子から何の遠慮もなくいろんな言葉を投げつけられました。『あんたユダヤ人だから、そのうち角が生えてくるんだよ』とかね。夜、寝床の中で、角が生えているか本気で頭を触って確かめたのを覚えています」

ビリーが育ったロングアイランドはいわゆる新興住宅街で、夕方になれば都心の勤務先から素敵なクルマでパパたちが帰ってくる日常がそこにはあったが、ビリーの家庭だけは違っていた。夕方、キッチンの窓から外をじっと眺めている母に、「何を見てるの?」と尋ねると、決まって「ただ外を見ているだけよ。パパ、帰ってくるかしらね」と答えたという。

留守がちの父親、誠実ではあったが少々押し付けがましい母親、そして近所の人々の露骨な偏見も重なる特殊な環境でビリーの性格は形成された。友人たちに言わせれば、ビリーは弱みを見せることを極端に嫌う。

独りの時間と自己決断の機会がたっぷりあったからこそ、自らの小舟を自力で漕ぎ続ける能力を育むことができたようだ。

人生を切り売りするかのような曲作り

幼いビリーにピアノを習わせたのは母ロザリンドだった。だがピアノのレッスンに通う途中で、いつもひどいいじめを受けていた。

フレッド・シュルアーズ著、斎藤栄一郎訳『イノセントマン ビリージョエル100時間インタヴューズ』(プレジデント社)

「ピアノの先生はバレエも教えていたので、僕がピアノ教本を持って歩いていると、ほかの子供たちが『おいビリー、チュチュ(バレエ衣装)はどこだ?』ってからかうんです。持っていた教本を叩き落として、殴りかかってくるわけです。それでボクシングを始めたんですよ。ある日、例の集団がまた挑発してきたので、一番でかそうなヤツを選んで殴り倒してやりました。自分で自分を守ることができて自信が生まれました」

ビリーの後の人生を見ると、自分が思う理想の家庭像や父親像を模索しつつも、空回りして失敗することが多い。ビリーは、悲しいときは悲しい歌を、有頂天のときは有頂天の歌を作る。人生そのままに、いや自分の人生を切り売りするかのように曲作りをしてきた。

だが、どんなに有頂天の気分を歌っていても、人生は必ずしもハッピーエンドで終わらない、ハッピーエンドになんてなりっこないとでも言いたげな歌詞が多い。