キューバ上陸を経てニューヨークに移住

ついにカールはヨーロッパからの脱出を決意する。そこそこの現金が手元に残っていたカールは、あらゆる手を尽くして家族3人のビザを入手し、妻、一人息子のヘルムート(後のビリーの父親)とともにイギリスを経由して1939年、客船で大西洋を渡ってキューバに入る。一方、カールの兄レオンの一家が乗った船は、キューバに着岸するも乗客全員の上陸許可が下りず、アメリカへの入港も見通しが立たないまま、復路をたどり始めた。ナチスがユダヤ人徹底迫害の見せしめに利用しようと考え、上陸を阻止したからだ。ヨーロッパに戻されたレオン夫婦は、アウシュヴィッツ強制収容所のガス室で殺害された。

今、ビリーはこんなふうに語っている。「父の一家がキューバ上陸を許されたことには、永遠に感謝したいですね。キューバ当局が国内でユダヤ人を保護してくれて、僕は本当に救われた思いがします」

ハバナに留まっていたカール一家はようやくアメリカへの移民が認められ、ニューヨークに移住する。息子のヘルムートは渡米を機に英語風のハワードと名を変え、大学のグリークラブで将来の妻となるロザリンドと出会っている。

後にビリーは、ロザリンドの名前を少し変えた『ロザリンダの瞳』という曲で両親のロマンスを描いている。

セニョリータ、さみしがらないで、いつだって僕が駆けつけるから
ここはハバナ、ずっと君を探し続けていたんだ
炎が消える前に戻るよ
ロザリンダの瞳の炎が

「ロマンチックな内容で、音楽しかない男を描いた物語なんです。父はキューバに数年暮していたので、家族の過去に関して僕が知っている内容を織り込みつつ、ロマンチックな内容に仕立てたんです」

アメリカ暮らしを満喫していたハワードだったが、1943年、ドイツ語が堪能なことが災いして、アメリカ陸軍に徴兵され、迫害の思い出しかないはずのヨーロッパに再び送り込まれる。

1946年に兵役を終えてアメリカに戻ったハワードは、ロザリンドと結婚し、1949年5月9日、子供を授かった。名前は、ウィリアム・マーティン・ジョエル。そう、ビリー・ジョエルの誕生である。

「父親のいない家庭だと思っていた」

「父親が自宅にいる姿をほとんど覚えていません。家族といえば、母親、姉のジュディ(実際にはいとこだが、ジュディの母の自殺を機に、ビリー一家が養子として受け入れた)、そして僕の三人だったんです。父親のいない家庭だと思っていたし、近所の人たちからもそう見られていました。お金にも余裕がなくて……」

『ホワイ・ジュディ・ホワイ』という曲で、ビリーは

世の中にはたくさんの知り合いがいるけれど、僕が泣きたいときに一番そばにいて欲しいのは君なんだ

と歌う。「(ジュディとは)実の姉のように接してきた。不遇の生活をともに味わった同志なんですよ」とビリーが説明する。