中国に限らず、海外市場に進出するときにはまずその国や地域の歴史を勉強しました。中東を担当すればイスラム教の歴史、インドを担当すればインドの歴史を学ぶ。これは部下たちにもすすめました。

「おれのサラリーマン人生は終わった」

私が30代で中国の次に担当したのはインドネシアでした。過去にいったん撤退したインドネシア市場に再参入するというプロジェクトです。4年間かけて準備を進め、課長に昇進した1990年度に経営会議に事業計画を出しました。ところが、これはあっさり却下。日産はバブル時代に借金が膨らみ、すべての海外投資が凍結されたのです。

頭にきた私は「ジャカルタ事務所設立の件」という上申書を役員に提出し、家族をつれてジャカルタへ赴任しました。事務所には所長の私ひとり。日本に提案書を送っても不採用が続き、円形脱毛症になってしまいました。さすがに「おれのサラリーマン人生は終わった」としみじみ感じました。

それでも諦めずに準備を進め、再び経営会議に事業計画を出したのは94年。日産は業績不振だったにもかかわらず、これが認められます。私は3年がかりで現地工場を設立し、インドネシアでの生産体制、販売体制を築いていきました。

私はこの経験から、子会社の社長になる人には、一冊の本をいつもはなむけに送ります。松下幸之助の『社長になる人に知っておいてほしいこと』です。この本は、幸之助さんが相談者の悩みに答える形で綴られ、逆境に立たされたときに大切なことは何か、仕事への熱意を失わないためにはどうすればいいかなど、関西弁の語り口調でわかりやすく説いているところが好きなのです。

97年に帰国して企画室に配属されたとき、日産は国内工場の閉鎖やリストラが進んでいました。翌年秋には、あと半年で倒産するという状況まで追い込まれ、企画室主管だった私はメインネゴシエーターとなって外資との提携に奔走します。ルノーとの交渉が動き出したのは99年3月。倒産ぎりぎりのタイミングで資本提携が結ばれ、ルノーの副社長だったカルロス・ゴーンが日産のCOO、CEOへとなるのです。私はアライアンス推進室長となり、「日産リバイバルプラン」の立案と実行を任されます。45歳のときでした。