「隠れ家」を見つけて、生き延びる
【東畑】じゃあ、この競争的な世界のどこで僕たちが「いる」を確保していけばいいのかというと、実は僕らはいろいろなところに隠れ家を作りだして、そこに逃げ込んでいるんです。
――本に登場する「アジール」のことですね。クラスに「いる」のがつらいときに避難できる、屋上に続く階段の踊り場や、職場でしんどくなった時に逃げ込む喫煙所のような、つらいときでも「いる」ことができる場所。
【東畑】そうです。この隠れ家というのは、根本的には空間ではなくて人間関係だと思うんですよね。だからSNSも隠れ家になるし、会社の愚痴を吐く飲み会もそうです。つまり、これだけきつく絞られている世界で生きていくために、僕たちはいろいろなところで誰かをかくまってあげたり、かくまってもらったりする必要がある。この両方があるのがいいんですね。
このとき、家族とかパートナーシップは一つの隠れ家として大きな意味を持つ気がします。その関係ってあんまり目標がないじゃないですか、甲子園を目指すわけでもないし(笑)。ただ一緒にいるために一緒にいる。そういうものが僕らの生を守ってくれる。
「いる」を支えれば、人は自分で問題と向き合える
――一方で、「ただ、いる、だけ」そのものの大切さを見落としてしまったせいで、無意識に人のアジールを壊してしまうことも多いと思うんです。
【東畑】そうですね。いろいろ厳しいですよね。人間が変化することに対して悲観的すぎたり楽観的すぎたりすると、そうなることがあります。「こいつは言ってやらなきゃわからない」と悲観的になったり、「俺が言えば変わるはずだ」と楽観的になったりして、相手を追い詰めてしまうということはよく起こる。
でも学校へ行けない子に対して「明日、とにかく行け」と言っても、絶対に変わらないわけですよね。多くの場合、本人が一番、問題をよくわかっているんですよ。学校へ行かずにゲームをしている少年を見た人が、「楽しくゲームをして、人生を無駄に使っている」と思ったとしても、本人にしてみればゲームなんて楽しくないわけです。本当は人付き合いはゲームより楽しいですよ。でも、学校に行けなくてつらいから、苦しさを紛らわすためにゲームをしているんです。