人と一緒に「いられる」ことは生きる基盤になる

リワークと呼ばれる社会復帰や職場復帰を目指すデイケアもありますが、僕がいたデイケアで出会ったのは、社会復帰以前に、「人と一緒にいられない」という問題を抱えた人たちでした。だからこそ、一緒にいるためにボーッとしたり、野球をしたりしていたわけです。そういうことをしながら、とりあえず人と一緒にいられることが、いかに難しいか、人生にとっていかに重要かということを思い知らされました。

例えば学校に行けず、家にひとりで引きこもっている人は、誰にも脅かされていないのだから、気が楽なんじゃないかと思うかもしれません。でも実際はひとりでいたらいたで、ものすごく脅かされているんです。「みんな自分が学校に来ていないことを、バカにしているんじゃないだろうか」とか。

――自分の頭の中の声に責められてしまうんですね。

【東畑】人と一緒にいられないときというのは、頭の中に自分を脅かしてくる悪い他者がいっぱいいる状態なんです。逆に人と一緒にいられるのは、安全な他者が心のなかにちゃんといるとき。それは、人が安心して生きていく上で基盤になるものだと思います。

「やれば数字が良くなる」の呪いにかかった社会

――働く人を取り巻く環境を見ると、今は「成果を出せないと生き残れないぞ」といった、「いる」以上を求めるプレッシャーが強くなっているように感じます。

【東畑】そうですね。「畑の土地は貧しいのだけど、そのぶん自分を鍛えて生き残ろう」みたいな世界に突入しているように思います。みんな、世の中が貧しくなるにつれて生じたさまざまなひずみに対して、いろいろな解決法を考えるわけですよね。たとえば組織のマネジメントの効率化であったり、自己啓発であったり。倒産しないようにとか、赤字にならないようにとか、今はリスクがあらゆるところに満ちあふれていて、みんな不安に脅かされています。そのリスクを避けることに追い立てられて、オブセッション(強迫観念)が生まれていると思うわけですよ。

そういう不確実で不安定な世界にあって、数字という白黒ハッキリしたものが、確実なものとして尊ばれている。だから、僕らはすべての領域にPDCAを回して、その結果を数字で測ろうとする。これは呪いのように僕らに付きまとっているもので、とても摂食障害的な世界観だと思います。摂食障害の特徴の一つとして、「何キロ痩せた」とか、「何カロリーだった」というように、数字がものすごい説得力を持って先走ってしまうことがあります。そのせいで、健康的にダイエットをするはずが骨と皮だけになって、結果的に健康まで損なわれてしまう。