日本の性教育はセックスの話ばかりする

その臨床心理士との会話は、「性教育」について考えさせられるきっかけになった。そもそも私自身が、性教育を「何」だと理解していたのだろう、と。

もう30年以上前、日本の学校で受けた性教育を振り返ると、それは「生殖」にまつわることのみだった。世界には男と女がいる。その男女が交わると子どもができる。その交わりのために男女には異なる生殖器がついており、それはこう機能する……というように。体の機能以外の知識、例えば性犯罪やそこから身を守るための方法については、教わった記憶がない。性教育とは生殖する体についての学習であり、当時中学生の私には、それはただただ恥ずかしく、一刻も早く終わってほしい時間だった。

そして現在でも日本の性教育の内容は、あの時から大きく変化していないらしい。

教育機関における日本の性教育の実態を俯瞰した「わが国の性教育の現状と課題」によると(齋藤益子氏著、日本性教育協会「現代性教育研究ジャーナル」87号、2018年6月発行掲載)、文科省の学習指導要領では、小学4年生からは体の発育・発達、中学校では第二次性徴と性感染症、高校では性感染症と妊娠出産・結婚生活への言及がされている。どれも生殖する体とその体を使った行為、その行為の結果(妊娠出産・性感染症)に関するものだ。授業は保健体育の担当教員の裁量のため、優先順位が体育実技に置かれ、保健は雨の日の補完オプション、という扱いも多い。

性教育は「性器教育」ではなく人間教育

しかし現実には、性にまつわる現象や問題は、生殖周辺に限らない。性指向や性自認などの精神面、性的マイノリティー差別やアウティングなどの社会面、虐待・犯罪に関わる人権・法律面など多岐に渡る。が、日本の一般的な性教育授業では、その多くについて触れていない。今年改定が発表された東京都の「性教育の手引き」のように、性同一性や性犯罪について取り上げた指針もあるが、日本全体で見ればとても先進的な一例だ。

前出の齋藤氏の論考でも、日本の性教育に期待されることとして「性教育は性器教育ではなく、『生と性』の教育、人間教育そのものである」と書かれている。そう提言する必要があるほど、現状は「性器教育」に偏っているのだろう。

その結果、性教育は公に語るのがはばかられる「秘め事」として扱われてしまっている。この教育を充実せんとする議論では必ず、頑強な反対派が登場するのもそのためだ。彼らの反対理由や論調は、まさに性教育を「セックスを教えること」と理解しているゆえのものだ。

かくいう筆者も、そう捉えていた一面を否定できない。6歳の次男に「性に関する教育を」と言われてギョッとした背景には、性教育=性行為について教えること、の思い込みがあったのだから。