実社会のように、正解が一つではなく、目的が自明でない状況では、何のためのプロセス遂行かわからないという本末転倒な事態となります。そして、プロセス遂行が目的化しているので、環境の変化が激しくなると、現実からどんどん乖離していくことになります。
日本人のTOEICスコアは当てにならない
2つ目の問題は、TOEIC Listening & Reading Test(TOEIC L&R)などに象徴されるのですが、点数と実力が一致しないという問題です。つまり、(TOEIC L&R)の点数が高くても、英語でのコミュニケーションは大してできないことです。
これは、今に始まったことではありません。筆者は、30年近く前のアメリカの大学院への留学中に、経営大学院の入学審査に係わっていましたが、当時すでに、日本人のTOEFL(当時は紙ベースのPBT)の点数は当てにならないというのが審査に加わるアメリカ人の間での共通認識でした。
勤務先の企業からTOEICの点数を取れと言われるため、規定の点数さえ取れれば良いということで、出題パターンを研究し、例えば選択肢の中から、初めから除外するべきものをすぐに見分けるテクニックなど、英語力を獲得するという本質とは異なる方向に意識が向いていきます。
そもそも、テクニックやハウツーを獲得することは受動的です。環境が絶えず変化し、常識が常に塗り替わっていくグローバル化する社会に求められるのは、能動的に動く姿勢なのです。能動的に動くとは、不確実な環境の中で工夫をし、試行錯誤を繰り返して、失敗を通して新たな発見をすることです。間違いを通して、自ら解答を発見することからしか、人間は本当の意味で成長することはできないと思います。
実際、失敗することは重要なのですが、テクニックやハウツーは、工夫、試行錯誤、失敗は回り道であり非効率的として排除します。自分の目で見て、自分の頭で考え、そして失敗し、間違いに気づいて再度試みる自由を確保する重要性を理解し、その自由を確保するために考え、行動する必要があるのです。
詰め込み教育では「課題の発見」ができない
グローバル化する社会では、問題解決能力が求められますが、それ以上に課題を発見する力が求められるようになります。問題解決能力とは、問題の現象に着目して定義し、課題を発見(抽出して、定義)し、その課題を解決して、問題現象を解消する一連の流れのことですが、実際は課題の発見と定義が鍵で、実はこれが難しいのです。もちろん、問題の定義も重要です。
なぜなら、それ次第で、得られる解決策の境界も自動的に設定されるからです。境界の外の解決策を見いだすことはできませんから、問題の定義が間違っていれば、解決につながる課題も見当違いとなりますし、他人と同じような定義では、差別化にはなりません。
「今現在進行するデジタル・テクノロジー革新に主導されるグローバル化」という常に常識が塗り変わり変化し続ける現在進行形の環境の下では、これまでのように知識をいくら詰め込んでも、問題定義や課題発見の能力は上がりません。
これまでの日本の詰め込み教育における知識とは、そのほとんどが、現在の教育システムが正解として与える、常識となる固定的な物事の情報の編集された束や体系と整理された枠組みや理論体系であり、評価される学習能力とは、それを批判的かつ連関的に理解しようとすることなく、ただ点数を取るために、平板に個別的に暗記される静的で受動的なモノです。