日本が適応できないのは「できすぎた」法律のせい

予測が難しい環境変化に適応するためには、従来の学校教育のように正解ありき、「人と同じだから大丈夫」は通用しません。多様性こそが環境変化への適応可能性を高めるからです。そして、絶えず変化する、つまり、当たり前が常に変わるので、適応率の高いモデルを探そうとしても無駄であると理解すべきです。

しかし、読者も感じていると思いますが、日本社会の変化への適応速度は極めて緩慢です。むしろ変化への適応を拒否しているようにも見えます。その大きな理由は、極めてよくできている緻密かつ複雑に絡み合った硬直的な法律や制度(規制)の存在と、高齢者のあふれる超高齢社会です。

法律や制度は、そもそも存在自体が保守的であり、変化を嫌います。そして、社会が急速に変化し続ければ、変化に先立つことのない法律は現状に適応しないので、機能が低下していかざるを得ないのです。

この意味で、精緻な法制度を有している先進国の方が、急激な環境変化への適応では不利になる可能性が高く、日本はその中でも、法制度とその解釈において現状変更を否定する力が強い社会と言えます。

加えて、2020年に75歳未満の前期高齢者の人口を上回る75歳以上の後期高齢者の急激な人口増加(2050年代には人口の4人に1人が75歳以上になる)がもたらす社会への影響です。高齢者は変化に適応をしても労多くして恩恵は少ないため、現状維持を主張し、変化には否定的です。したがって、日本の世論(有権者の多数を占める高齢者の意見がベースとなります)は、グローバル化による変化に対して否定的になります。

ここでの正当化の根拠として、伝統を守ることが強調されるでしょう。伝統とは、歴史の中で先祖の知恵が集積され、醸成されて残ったエッセンスであり、伝統の尊重は、過去から未来につながる単線的な歴史主義が前提にあった時代には賢明な判断だったかもしれません。

しかし、歴史主義は、もはや大きな意味を持ち得ず、伝統は、変化を否定する際のもっともらしい言い訳として使用されていると認識すべきであると思います。

企業も国家も個人も日本は全部遅い

バブルの崩壊後に始まったのですが、日本は、階段を駆け降りるように世界(主に欧米)から相手にされなくなっています(最近、増加する訪日外国人の圧倒的多数は、台湾や香港を含む中国、韓国を筆頭とするアジア人です)。

戦後から高度成長時代にセットされた、個々の能力に関係なく、みんなで同じ目標を持って努力すれば、いつか必ず報われるという政府の方針が、バブル崩壊を経て、ここに至り、もはや機能しない(破綻した)ことが明らかになってきました。

「そんなはずではなかった」と多くの国民が思い、成功者をみると、なにかズルイことをして儲(もう)けたに違いないと妬むようになっています。

少子超高齢化と人口減少によって、もはや経済の成長は困難で、巨額な財政赤字を抱え、負の再分配が行われるようになる中で、この傾向は強まっています。皆で貧しくなり、いら立ち、他人への許容度や寛容を失い、「優しいはず」の日本社会は、急速に「優しくない」社会へと向かっています。

現在の日本の状況は、「生き残るために急速に変わらざるを得ないことを理解し、変身を始める合理的な企業」と「変わりたくない、変えてはいけないと悪あがきする非合理的な国家」その狭間で「変わらなければいけないと思いつつ、思考停止状態の個人」といった構図です。