「国家変造」計画は死体遺棄から端を発した
信者の死を隠蔽し死体の秘密裏の処分を指令した9月22日、麻原は日々に薄氷を踏んで生きていかなければならない犯罪者になり、その意味で彼は非常時を生きる人間になった。極端な言い方をすると、国家に捕まるか、国家を倒すかの二者択一になった。滅びるか、滅ぼすかです。
しかも麻原の肉体も彼のセルフ・イメージでは滅びつつある。おりしも昭和も終わり、次の元号の時代が始まろうとしている。日本が天皇の死と新生(代替わり)によって形式的に生まれ変わるとすれば、オウム真理教はそれに合わせて日本を実質的に生まれ変わらせなくてはならない。
既成の国家と法の体系が持続している中で、信者の死体を一宗教団体が秘密裏に処分していることが露見すれば、麻原以下が罪に問われて、オウム真理教の権威は地に堕ちる。滅びてしまう。そうせぬためには、オウム真理教の犯罪が問われない日本に国家を変造するしかない。
繰り返せば、麻原本人の肉体も滅びつつある。麻原が入滅してもオウム真理教が継続し、日本を、世界を支配してゆけばよい。暴れる信者が教団の論理で処分されても、国家がそれを不問に付すとすれば、その国家とはつまりオウム真理教の支配する国でしょう。滅びるか、滅ぼすかとはそういうことです。
“米軍が教団を攻撃している”という妄想
では、麻原の健康状態は、昭和天皇の衰えに合わせるかのように、なぜ悪化しているのか。その理由を麻原は外部に求めてゆきました。攻撃されているというのです。
毒ガスなどで、麻原のみならず、教団全体が攻撃されているから、麻原の余命はなくなりつつあり、そこで自衛のために立ち上がらなければならないという。では、いったい誰がオウム真理教を攻撃するというのか。米軍だというのです!
そうなると、昭和天皇が老齢でいのちが尽きつつあることに麻原がおのれを重ねたという話では済まなくなってきます。むしろ昭和史全体とオウム真理教の歴史の妄想的重ね合わせが起きていたと言うべきでしょう。アメリカの重圧に対抗する自存自衛の戦争。これはまさに「大東亜戦争」の論理にほかなりません。
教祖の寿命と世界の寿命が重ね合わされ、教祖の死のイメージが世界の終わりと結びつき、戦争や災害やテロがそこに相乗してくる。宗教を巡る想像力のひとつの定石です。オウム真理教もそうでした。しかし、その連想作用に昭和が重なってくるところに、オウム真理教の時代性があったと思います。