ポスト平成史に訪れた“仮想敵”とは違うモノ
でも、それだけではありません。特に第二次安倍内閣以降の平成史・ポスト平成史には、今度は「オウム史」のなぞりとして語れる部分があるのではないか。そのようにも思うのです。
オウム真理教は危機を妄想して教団内の結束を高めてゆきました。ヒトラーにとってのユダヤ人が、麻原にとってはたとえば米軍になり創価学会になり日本政府になった。しかし、危機は非日常ですから、なかなか長く持続できるものではありません。ヒトラーの政権は12年。オウム真理教がその教団名になってからテロで自壊するまで8年。危機を煽って内部を結束させても寿命はだいたいそのくらいということです。
しかし、平成20年代、あるいは2010年代の日本には、違ったタイプの危機が訪れているような気がします。
まず地震。日本列島周辺の地殻は活動期に入って大地震が頻発しておかしくないと、学者たちは口をそろえます。その言説に真実味があると、この列島に暮らしているわたくしどもは思わざるを得ないでしょう。原子力発電所の事故が絡むと、場合によっては亡国。驚くべき危機的時代です。
しかも人事でなく天変地異のことですから、何十年とか百年とかで危機の幅を考えねばならないでしょう。言わば慢性的危機なのです。そこに、北朝鮮や中国の脅威論、日米同盟の持続性の議論、さらに経済破綻の恐怖まで絡んでくる。何れも危機としてはかなりダラダラ続くタイプになっているでしょう。
「死」が見えず、終わりのない危機が進行している
つまり、危機意識を梃(てこ)にした国民のファシズム的連帯が、今日の日本には志向されているきらいがなくはなく、それは新興宗教的に言えば国民のカルト化と結びつく可能性もあるでしょうが、昭和の戦争の時代やオウム真理教の末路のようにエスカレーションしてゆくのとは性質が違う。
危機が昂進(こうしん)して一挙にカタストロフに至る可能性はさまざまな次元で存在しますけれど、どの危機もダラダラと際限なく続いていく公算も高い。
終わりなき非日常であり、終わりなき危機です。アメリカが2001(平成13)年に言い始めた「テロとの戦い」というものが、そもそもそういう性質です。
際限なく果てしない危機。それが時代を特徴づけているのです。
死や終末がはっきり見えてこないのだが、危機だ、国難だ、と言われ続け、もう当たり前になってしまっている。なかなか不思議な時代と言えるかもしれません。そう、平成の終わりにも「死」がない。「生前退位」ですから。麻原彰晃が煽られていたに違いない、あのエスカレーションしてゆき、瀬戸際まで追い詰められてゆく、昭和の終わりの死の重圧が、平成の終わりにはありません。
本当の死があれば、そのまま滅亡か、それとも新生・再生か。二者択一に追い詰められます。そこまで、恐ろしい話ですが行ってしまうときは、ナチス・ドイツや大日本帝国やオウム真理教のようにひたはしる。レミングのような死の跳躍があります。死の跳躍が激しく起こるのは、平時や健康時とのコントラストがきいているからでもありましょう。