日本の職人たちの情熱はものすごいですよね。例えば「ナポリピッツァ職人世界選手権」で2連覇した山本尚徳さんなど、多数の日本人がイタリアの大会で優秀な成績をおさめています。反対に、イタリア人が和食の大会で結果を残すことは、ちょっと考えられません。

イタリア人が「ケチャップ」を受け入れない

――著書には、イタリアで友人たちにナポリタンを振る舞ったら大騒ぎになったエピソードがありますね。

ケチャップはアメリカの食べ物ですからね。イタリア人は食に対してすごく保守的なので、昔から代々伝わっている伝統的なものでない限り、簡単には受け入れられないんです。ましてやケチャップなんてものはえたいの知れない食べ物で、私がスパゲティの中にどばどば入れているのを見て「あ~、やっぱりこの東洋人、パスタのこと何も分かってないわ!」と驚かれました。

でも、「とにかく、私が何をしたかはいいから割り切って食べてみて!」と言って食べさせたら「うーん。でもまずくはないね」でした。イタリア人の言う「まずくはない」は「そこそこイケる」という意味です(笑)。

食を変えないイタリアと、変化を求める日本

――そこまでこだわりを徹底する、イタリア人のメンタリティはどう感じていますか。

不思議ですよね。古代ローマ人は、ありとあらゆる食べ物を受け入れてきた人種なのに。お風呂文化が消え、キリスト教化し、特化したキリスト教的倫理観が広まるようになってからは食べ物に対する視野だけでなく、全体的な精神世界も縮めていった、ということなのかもしれない。だから、中世が暗黒期とも言われたりするのでしょう。

撮影=遠藤素子

でも、それを考えたときに日本って、狭い国なのに食べ物に対してはすごく大胆じゃないですか。だから、この味覚の旺盛な外交力を表面的にも生かしていければ、日々の暮らしのさまざまな部分に適応していけるはずなのにと思います。異質であっても、そこに特化したクオリティーを見つけ出すなんていう味覚のスキルは、日常の人間同士の付き合いの中でも生かされていいはずですよ。

だって、こんなに世界中の食べ物を何でもおいしいおいしいと言って食べている人種なんて他にはめったにいないですよ。例えば、今の日本ではイタリア料理というくくりどころか、サルデーニャ料理、シチリア料理、ナポリ料理とレストランの細分化も信じられないことになっている。イタリア本国は、自分たちの地域の料理を出すレストランしかありませんから。トスカーナでヴェネト州の料理なんてなかなか食べられません。

地元にいれば、「あそこのシェフはシチリア出身らしい」という情報から、シチリア料理を食べることはできます。ただ、それも口コミで知られる程度で店のウリにするほどではありません。一方、日本ではシチリアの人も意識していないようなシチリア料理が食べられる。だから、「いったい何なの、この多元的食文化の国は!?」と思うわけです。