「データを解せば世の中が変わる」という思い込みが招くもの
『センスメイキング』を書評したブログで、僕はふたつの例を挙げました。
A:
「先生、人事のビックデータを分析したんですけどね。そしたら、『離職の可能性の高い従業員』を予測することができるようになったんです。離職する可能性のある従業員は、欠勤が多いんですよ。ま……だよねって、感じですけど。これで、自信をもって離職予測ができますよ」
B:
「先生、うちでもAIを使って、売り上げを増やす方法を分析してもらったんですよ。店のトイレの方の角のところに、食べ物の売り場を移した方がいいっていうんですよ。なんでって? いや、理由は、よく、わかんないんですけれどね。AIは理由はわからないらしいんですよ。でも、困っちゃいますよね。食べ物をね、便所の近くに置けないじゃないですか……」
(出典:中原研究室ブログ)
データを重視しすぎる素朴な理系が陥りがちな罠ですが、「データを解せば世の中が変わる」という思い込みは危険です。例Aは、「データが大事と言うけれど、なかにはゴミも多いよね」という例です。休みが多い人がいずれ離職するなんて当たり前のことで、ほとんどトートロジー(同語反復)ですよね。それをわざわざデータが出たからといって必要以上にありがたがるというのは安易です。
――データ分析には事象同士の関係が因果関係なのか相関関係なのかを見抜くテクニックが重要ですが、“因果と相関の取り違え”もよく言われることですね。
そうです。例Bは、「意味や理由はわからないのだけど、コンピュータやAIがはじきだした相関関係だけでアクションが決められてしまう事例」です。相関関係を取り違えていて、よく考えもせずにAIやアルゴリズム、データブームに乗ってしまっている。AIがはじき出したデータだからといって、食べ物をトイレの近くに置くなんて、衛生を確保しなければならない限り、難しいことです。
たしかに、コンピュータやAIに比べて、ヒューマンファクターを併せ持つ人間は、非効率で移り気で、根性がないのかもしれません。データと対極にある「人間」や「人間的なもの」はいまや分が悪くなってきており、また、人間を考える学問分野である人文科学が「不要なもの」と、とかくやり玉に挙げられがちです。が、僕はHR(人事)をデータから見ている人間だからこそ、行き過ぎた「データ重視、人間軽視」の風潮に危機感を覚えます。