児童婚を「文化的な違い」で済ませていいのか
――イスラーム圏の児童婚の問題は、性行為による女性の身体への悪影響などを踏まえると、「文化的な違い」では済まないようにも思えます。それに対してはどう向き合ったらよいのでしょうか。
その説明で全然問題ないと思いますが、身体的な問題や自己決定権、女性の権利を無視しているといった非難が、西洋的な基準にもとづいていることも確かです。「私たちは西洋的な基準で動く文化のなかにいるので、そのなかで考える。それもひとつの考えにすぎない」ということを前提にしたうえで、違う考え方の人たちと付き合っていくのが重要だと思います。「お前は間違っている」と言ったとたんに、相手とのコミュニケーションは不可能になるでしょうから。
アメリカの哲学者のリチャード・ローティが言うように、自文化中心主義をなくすことはできません。西洋人が「自分たちが正しい」と思うようになったのも、それはそれで自文化中心主義の一つのあり方だし、国家や文化のレベルでも、その人たちにとっては自分たちのほうが正しいとそれぞれが思っている。自文化中心主義から出発するほかないんです。
自文化中心主義を乗り超えるとか、自文化中心主義に陥らないようにというのはありえず、自文化主義を前提としたうえでお互いに付き合おうねというのが、20世紀の成果でした。
「おかしい」と思う人がいることを自覚する
イギリスの哲学者のカール・ポパーは『フレームワークの神話』という本で先ほどのヘロドトスの話をとりあげ、重要なのはお互いに「相手はおかしい」と考えているということではないと言うんですね。ポパーは、2つの部族の間に通訳がいることに着目します。通訳を交えて、相手側がどのような反応をしたのかということを、もう一方の部族に教えるわけです。そうすると自分たちの考え方もまたひとつの考えにすぎないということを、彼ら自身が自覚する。
どちらが正しいかとか、2つの習慣があっておかしいという話ではなく、自分たちの習慣を「あいつらはなんて変なことをやっているんだ」というふうに見る人が外にいるといことを自覚する、そこが非常に重要です。そうすることによってコミュニケーションが可能になる。
互いにコミュニケーションをとりながら落としどころを考えていくということしかないと思うんです。そうでないと、相手が間違っているという決めつけになる。それはあまり生産的ではないでしょう。