上下関係は当たり前ではない

私は、地下鉄サリン事件が起こった後、取材のために東京総本部を訪れたことがあったが、そのとき話をした出家信者の一人は、省庁制が導入されたとき、それを冗談として受けとったと語っていた。省庁とは言っても、内実が伴っているわけではなかったからである。その点では、省庁制は真剣なものとしては受けとられなかったわけだが、なかには、犯罪行為に加担した部門もあるわけで、その導入は、オウムの教団にテロ組織としての性格を持たせることに貢献した。

日本は組織の発達した社会であり、いったん組織が作られると、その内部には役割分担が生まれるとともに、上下関係が厳格な形で生み出されるようになる。それによって、上の人間は下の人間を自分たちの思い通りに動かすことができるようになり、下の人間は、指示が出れば、それに逆らえなくなるのだ。

組織社会に生きる私たちは、それは当たり前のことだと考え、そこに疑問を抱かない。上下関係があるのは当然だと考えてしまうのだ。

だが、世界を見回したとき、どの社会においても組織が発達しているわけではない。あるいは、日本は組織がもっとも発達している社会なのかもしれない。

イスラム教で組織が発達しない理由

たとえば、イスラム教の場合、それが広がった地域においては、おしなべて組織が発達しておらず、個人主義の傾向が強い。あまり認識されていないことだが、イスラム教には教団組織が存在しない。モスクも、ただの礼拝のための施設であり、一つの教団を組織しているわけではない。近くにいる人間が礼拝に訪れる場所であって、メンバーシップは確立されていない。イスラム教は教団なき宗教なのである。

イスラム国に渡ったことのあるイスラム学者の中田考は、そこで多くの司令官に会ったと語っている。だが、司令官のあいだに上下関係はなく、それぞれが勝手にそう名乗っていただけだというのだ。

イスラム教においては神が絶対で、その下にある人間同士のあいだには、いっさい差がないと見なされている。組織が生まれれば、管理の都合からどうしても上下関係が生まれる。それをイスラム教では是としないため、組織が発達していないのである。