個人同士が完全に平等な状態とは

あるいは、もともとイスラム教が広がったアラブや、その周辺地域は部族社会であることがそこに影響しているかもしれない。イスラム教スンニ派の最高指導者は「カリフ」と呼ばれ、現在は不在だが、その資格は、預言者ムハンマドと同様にクライシュ族の出身であることが条件になっている。部族は人間関係のネットワークで、そこに属している者は、同じ部族の人間関係に強い関心を抱くが、部族全体で組織行動をとるわけではない。

個人主義の傾向が強いのも、それが関係する。組織が発達していなければ、組織に頼ることはできず、何事も個人でやっていくしかない。

実は、私の義弟はトルコ人で、イスラム教徒であるが、その行動はまさに個人主義にもとづくものである。しかも、トルコ人のあいだには、学歴や職業による区別、差別は存在せず、個人同士は完全に平等であるように見えるのだ。

日本にも神は存在する。だが、日本の神は、この世界を創造したような絶対的な存在ではない。一神教の神とは根本的に異なる。その結果、神のもとにすべての人間は平等であるという考えが徹底されることはない。

戦前の強固な権威構造との酷似

その代わりに、組織の中心には特定の人間が坐り、その人間はほかの人間から崇められ、神聖な存在とも考えられていく。近代の社会における天皇が、その代表である。大日本帝国憲法では、天皇は「神聖にして侵すべからず」と規定された。

それによって戦前の日本社会には、強固な権威構造が作られた。それが、無責任体制を生んでいったことについて分析を行ったのが、政治学者の丸山眞男の論文「超国家主義の論理と心理」であった。丸山は、「国家的社会的地位の価値規準はその社会的職能よりも、天皇への距離にある」と述べていた。天皇に近ければ近いほど、その人間は権威ある存在として振る舞えるというのである。これは、オウムのステージにそのまま当てはまる。

丸山はその際に、日本の戦犯とナチス・ドイツの高官とを比較する。丸山は、その違いを、「だから戦犯裁判に於て、土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する」と評している。土屋達雄と古島長太郎は、俘虜(ふりょ)に対する暴虐行為で裁判にかけられた。ゲーリングはナチスの高官である。