また、この本が書かれたのは、太平洋戦争が始まる少し前ですが、すでに日露戦争などで功績のあった人々を英雄(軍神)として賞賛する風潮が強まっていました。

この作品も、その影響を受けているという意見が多かったけれど、実はその逆で、よく読むと、軍国化する当時の日本を、やんわりと批判していることがわかります。

六十万の人々には、それぞれ家族もあれば、友だちもある。だから、ただ六十万が死んでいったばかりでなく、その上になお生きている何百万という人々が、あきらめ切れない、つらい涙を流したのだ。

ここまで来れば――、そうだ、これほどまで多くの人々を苦しめる人間になってしまった以上は、ナポレオンの権勢も、もう、世の中の正しい進歩にとって有害なものと化してしまったわけだ。遅かれ早かれ、ナポレオンの没落することはもう避けられない。そして、歴史は事実その通りに進行していった。

コペル君。ナポレオンの一生を、これだけ吟味して見れば、もう僕たちには、はっきりとわかるね。

英雄とか偉人といわれている人々の中で、本当に尊敬が出来るのは、人類の進歩に役立った人だけだ。そして、彼らの非凡な事業のうちに、真に値打のあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ。(同前)

最後の部分は、本の中でも太字で強調されています。太字が用いられているのは、ここだけです。つまり、これは戦争を肯定するために書かれたのではなく、軍国主義に警鐘を鳴らすために書かれたものなのです。

戦争を全面的に否定するような本を出版することがどんどん難しくなっていくなかで、作者は慎重に言葉を選びながら、真の英雄とは何か、多くの人の命を奪う戦争はいかに愚かしいか、ということを読者に考えさせる仕掛けとして、ナポレオンの話を取り上げているのです。

▼吉野源三郎とは
●1899(明治32)年生まれ、1981(昭和56)年没。東京府出身。
●旧制の東京高等師範(後の東京教育大学、現・筑波大学)附属中学校を経て、第一高等学校へ進学。1925(大正14)年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。
●明治大学教授、岩波書店「世界」編集長などを歴任。昭和の戦前戦後を通じ、代表的な進歩的文化人として活躍した。
●『君たちはどう生きるか』をはじめ、『人間の尊さを守ろう』『人類の進歩につくした人』『エイブ・リンカーン』などの著書を残した。