望み通りの夢を見せてくれる機械につながれたいか?
そうした幸福感をつくり出す機械が実現できたとしましょう。自分が望むどんな経験も与えてくれる機械につながれたあなたは、どんな夢も見ることができる。思い通りの人生がこのなかで展開される。ただし、一度セットしたら取り外しは不可能です。
あなたはどうしますか?
これはロバート・ノージックが考案した「経験機械」という思考実験です。
こう問われると「いやいや、それはちょっとイヤだ」という方が多いかもしれませんが、何十名もの人と一緒につながれるならどうでしょうか?
意味は少し違いますが、ハイデガーの言葉を使えば、経験には各自性があります。つまり、経験とはあくまでも「私にとって○○と思われる」ということですので、自分の思いと現実というのは区別できないんです。このように私には見える、1キロメートル先のものはこのように見える、もっと近づくとこう見える……というように、私が思うこと以外にこの現実はありえない。そうなると、自分の思いとは別に「本当の」現実があるという考え方は揺らいでしまいます。
実際、最近の科学技術として、人間の思いと現実が融合しあうようなテクノロジーが出てきましたよね。VR(仮想現実)とか、AR(拡張現実)だとか。こうした技術を用いると、各人の思いがある意味そのまま現実化するわけです。そのなかで、私たちの思いと現実という概念そのものも、もしかしたら崩れ始める可能性があるかもしれません。
ここまで見てきたように、自分の考えや感覚の「正しさ」を疑ってかかることこそ、哲学の基本といえます。では、こうした姿勢をもってして、哲学はこれまで何をしてきたのか、そしてこれから何ができるのか。次に、それを考えてみましょう。
哲学の役割とは?
ホワイトヘッドという哲学者がこういいました。
「西洋のすべての哲学は、プラトン哲学への脚注にすぎない」
哲学者は、プラトンがすでに議論した問題を、形を変えて取り扱っているだけじゃないかというわけです。これを聞くとギリシア哲学をやっている人は泣いて喜びますが、実はそのバリエーションこそが重要な問題です。カントは次のように述べています。
「哲学を学ぶことはできない。哲学することだけを学ぶことができる」
この哲学講座もそうです。学説や知識をここでお話ししたいとは思っていません。冒頭で申しあげたように、むしろ、自分自身の知性を使って哲学することを学んでいただけたらと思っています。誰かの説を鵜呑みにするのではなく、「自分だったらどう考えるか」を、さまざまな視点から考えてみていただきたいのです。