「考え議論する道徳」ができない

このパン屋と和菓子屋の話題は、八木秀次麗澤大学教授との対談(『正論』2017年6月号)でも話題にのぼった。私と八木教授は基本的に異なる立場から意見を戦わせていたが、この部分では案外かみ合った議論となったので、少し紹介してみたい。

【寺脇】いわゆるパン屋と和菓子屋の話ですが、私も(文部官僚時代に検定を)やってたのでわかります。昔は検定側がこう直せとか言っていたけど、今はここについて文部科学省と教科書会社が一緒に考えていきましょうみたいなやり方です。文科省がパン屋は駄目で和菓子屋にさせたかのように報道されるけど、実は教科書会社が自ら考えて変えた。パン屋か和菓子屋かの問題ではなく、ちゃんと子供が考えて議論するような教材になっているかがポイントだったんじゃないですか?

【八木】そこです。道徳が教科になったにもかかわらず、これまでの副教材のほぼ焼き直しで工夫が見られず、「考え議論する道徳」の体をなしてない。「にちようびのさんぽみち」もずっと以前からあって、私にいわせると面白くもなんともないが、教科書会社の忖度があった。文科省が要請したかのような報道がされたので、パン屋の業界が怒り、給食に協力しないという話にまでなった。

【寺脇】例えばあんパンっていうのは、こんな昔からあった、明治の人が考え作ったんだよとか。古い伝統もあれば、私たちが新たにつくっていこうとしている伝統もあるわけじゃないですか。そんなことは考えなくて、パンじゃなく和菓子にすればいいという安易な教材ばかりだとすると、考え議論する道徳ができるのか心配になります。

【八木】伝統文化や愛国心について教育界ではこれまで重視されてこなかったから、それをどう教え、どう表現していいのかがわからない。そこで極端に振れる場合が出てくる。バランスのとれた、排外主義ではない美しい愛国心や、伝統と文化を大切にする自然な姿が必要です。そういう発想が教科書会社にも足りなかった。今後、現場でも課題になってくると思います。

【寺脇】「こんないいところが日本にはある」と言うのはいいけれど、「中国にはない」などと他を下に見て言わなくてもいいじゃないですか。なぜあんパンが伝統なのだろうとか、外国の知恵も取り入れましたとか、日本の風土に合うようにやってきましたとか議論があってしかるべきで、パン屋か和菓子屋かみたいな二元論でやるとマスコミは面白いだろうけど、道徳の本質は違うものになり、短絡的で表層の議論に終始しています。

教科書の問題については、パン屋が削除されたことが問題の本質ではないという意味で、私と八木教授の考えは一致している。現在の教科書が、どのような立場から見ても、およそ高く評価することはできないということの証明である。

寺脇 研(てらわき・けん)
京都造形芸術大学 客員教授
1952年生まれ。東京大学法学部卒業後、75年文部省(現・文部科学省)入省。92年文部省初等中等教育局職業教育課長、93年広島県教育委員会教育長、1997年文部省生涯学習局生涯学習振興課長、2001年文部科学省大臣官房審議官、02年文化庁文化部長。06年文部科学省退官。著書に『国家の教育支配がすすむ』(青灯社)、『文部科学省』(中公新書ラクレ)、『これからの日本、これからの教育』(前川喜平氏との共著、ちくま新書)ほか多数。
(写真=iStock.com)
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