※本稿は、寺脇研『危ない「道徳教科書」』(宝島社)の一部を再構成したものです。
少年のためにビッグチャンスを捨てた手品師
次に紹介するのは、8社の教科書がすべて採用した定番教材である「手品師」という話である。原作者の江橋照雄(1932-1999)は道徳教育の専門家として知られた元小学校教諭で、全国幼稚園長会会長もつとめた人物だ。
【手品師】
あるところに、うではいいのですが、あまり売れない手品師がいました。もちろん、くらし向きは楽ではなく、その日のパンを買うのも、やっとというありさまでした。
「大きな劇場で、はなやかに手品をやりたいなあ。」
いつも、そう思うのですが、今のかれにとっては、それは夢でしかありません。それでも、手品師は、いつかは大劇場のステージに立てる日の来るのを願ってうでをみがいていました。
ある日のこと、手品師が町を歩いていますと、小さな男の子が、しょんぼりと道にしゃがみこんでいるのに出会いました。
「どうしたんだい。」
手品師は、思わず声をかけました。男の子は、さびしそうな顔で、お父さんが死んだあと、お母さんが働きに出て、ずっと帰ってこないのだと答えました。
「そうかい。それはかわいそうに。それじゃおじさんが、おもしろいものを見せてあげよう。だから元気を出すんだよ。」
と言って、手品師はぼうしの中から色とりどりの美しい花を取り出したり、さらに、ハンカチの中から白いハトを飛び立たせたりしました。男の子の顔は、明るさを取りもどし、すっかり元気になりました。
「おじさん、あしたも来てくれる。」
男の子は、大きな目をかがやかせて言いました。
「ああ、来るともさ。」
手品師が答えました。
「きっとだね。きっと来てくれるね。」
「きっとさ。きっと来るよ。」
どうせ、ひまな体、あしたも来てやろう。手品師は、そんな気持ちでした。