▼経験者が語る「成功の秘訣」

首都圏の大企業勤務から離れ、地方の中小企業を選んだ者たち。彼らはなぜそこに至り、何を目指すのか。その声に耳を傾けよう。
50代でUターン
東京→栃木

定年までに、わが家へ戻ろうと転職活動を開始

「今までの転職は事後報告だったんです。今回はさすがに最後になると思って、妻に転職してもいいか聞きました。そうしたら『好きにすれば?』って」

中村信之●1962年生まれ。国内大手電機メーカーで医療機器の設計、外資系メーカー2社で医療機器のサービス、マネジメントを経て、2018年2月、生検針・特殊針メーカーのタスクに入社。開発部長を務める。

笑って振り返る中村信之氏は55歳。これが3度目の転職だった。

大学院を卒業して大手電機メーカーに入社し、栃木県で医療機器の設計・開発に従事。その後、30代後半で会社を移り、2社目、3社目は東京に勤務するが、いつかは栃木に帰ろうという思いがあった。それは最初の会社に勤務中、栃木に家を建てていたからだ。

「2社目以降、私は埼玉や東京の賃貸から通って、16年ほど持ち家の暮らしから離れていました。でもゆくゆくは戻るつもりだったので、定年までの体力と気力があるうちに、新しい仕事を見つけたかった。それで地元の転職エージェントに、打診していたんです」

条件は家から通える範囲で、これまで携わってきた医療機器関連企業であること。見つからなければ都内に残る道も検討していたなか、紹介されたのが、地元の中小企業・タスクの開発部長職だった。

タスクは生検針・特殊針の製造メーカーで、ここ数年で売上高が倍になるなど、事業が拡大中。人事総務部長の佐野稔氏によれば、「会社が大きくなるにつれて、足りない要素がだんだん顕在化してきました。そこで改めて基盤を構築しようと、要職を募集したんです。シニア層を探したわけではなく、求めていた能力を備えていたのが中村さんだったわけです」。

収入は前職よりやや下がったが、躊躇はなかった。ひとつは自己負担だった賃貸料と、2人の子どもが就職して教育費がかからなくなったため、大きな影響を受けなかったこと。もうひとつは、開発業務の魅力だった。前職は外資系の日本法人だったので、輸入した装置を販売・サービスする業務が中心。もの作りから離れる寂しさを感じていた。それが開発担当なら、ゼロから新しいものを作り出す仕事に携われる。

「また、タスクが成長中の企業だったことにも背中を押されました。最初の転職は、外資系企業が日本で新しい事業を立ち上げるところでの入社。会社が人を入れて伸びていく時期はダイナミックで面白いし、何より自分のやりたいことができるので」

そして地方に戻ってきたことで、何より楽しみにしていることがある。それは趣味のオートバイだ。東京に引っ越した頃は置く場所がなくて、一時期手放していたが、次第に熱が戻って再び乗るようになった。今所持しているのは1800ccの大型バイクだ。

「東京では専用のガレージを借りていたんですが、そこまで自転車で移動するのがストレスでした。都内のマンションと比べて地方の一戸建ては、好きなときにオートバイにふれられるのが嬉しい。栃木は走るところがいっぱいありますから、日頃は仕事に集中して、休日のツーリングでストレスを発散しています」

重いバイクのUターンは転倒しやすく、勇気がいるといわれる。思い切ってハンドルを切った中村氏は、これからも新しいステージで走り続ける気概に満ちていた。