杉田論文を擁護する「大物筆者」がいなかった

今回はどうか。今月18日に発売した「新潮45」(10月号)で、編集部は、一連の杉田批判に対しての批判は「見当はずれ」で「主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に染まり、そこには冷静さのカケラもなかった」と謳って、「特別企画 そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という7人の書き手による39ページの反論特集を組んだ。

こういう場合、こんな大物も編集部の見解に理解を示しているのかと、読者に思わせる書き手を起用する。これも雑誌作りのイロハである。

だが、新潮45が巻頭に起用したのは藤岡信勝氏であった。肩書に「新しい歴史教科書をつくる会副会長」とあるように、産経新聞が発行している右派雑誌、正論の常連執筆者で、杉田議員と考え方が近い人物である。

次の小川榮太郎氏は杉田議員と対談本『民主主義の敵』(青林堂)を出し、第18回正論新風賞を受賞している。

私は「正論」がどうこうといっているわけではない。杉田議員の考え方を擁護し、批判する人間たちに一太刀浴びせようと編集部が意図したのなら、この人選は間違いだったと思う。

この程度の書き手にしか出てもらえなかった時点で、編集部側の敗着が決まった。この内容では出すべきではない、そういう編集部員が一人もいなかったのだろうか。

「痴漢が触る権利を社会は保障すべき」という暴論

雑誌は編集長のものだから、思っていてもいい出せなかったのだろう。

「私は雑誌の発売直後、騒動が起こる前に読んだのだが、全く何の違和感を持たなかった」(藤岡氏)という問題意識のない人間や、「『生産性』発言については複雑な思いを抱いています。相模原障害者殺傷事件と同じ優生思想だとの批判はもっともだと思いながらも」と、戸惑いを隠せない松浦大悟元参院議員(落選後、ゲイであることをカミングアウトした)、「杉田氏の『生産性』という発言は、過去の『新潮45』の中でもありました。当時杉田氏は議員ではありませんでしたが、今は自民党の衆院議員。発言には気をつけなければいけません」とたしなめるユーチューバーのKAZUYA氏などバラバラで、「真っ当な議論のきっかけとなる論考」(新潮45のリード)になどなっていないのである。

極めつけは文芸評論家の小川氏の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」という、杉田論文をもはるかに超えて、「公衆便所の落書き」(作家・高橋源一郎氏)如きものとしかいいようのない駄文である。

小川氏はまず「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」と宣言する。

問題になっている核心を知ろうとしないで、杉田論文を擁護しようというのだから、あとは推して知るべしではあるが、暴論の核心部分はここだ。

LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう。SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ。ふざけるなという奴がいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからである。
満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深ろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。
彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか。触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく

小川榮太郎「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」(「新潮45」10月号)より抜粋

この暴論の上塗り発言には、新潮社の内部からも批判の声があがった。