世の中の風潮に流されず、いいと思ったものは取り入れる

それはおそらく、材木の取引に必要なごく初歩的な算数だったでしょう。しかし弥太郎は開眼したのです。日本一の学者に儒学を学んでいた弥太郎が、木こりに算数を教わるというのはじつに奇妙に聞こえますが、当時、日本に算数ができる武士はほとんどいなかった。なぜなら金勘定というものは、身分の低い商人風情がやるもので、武士道にもとる下衆なものであるとされていたためです。そういった世の中の風潮に流されず、いいと思ったものは取り入れる姿勢が、弥太郎を成功者へと導いたのだと私は考えます。

西南戦争に向かうため、横浜港に集まる帝国陸軍。

弥太郎はこの「牢獄の算術」に磨きをかけ、出獄後、財政難に陥っていた土佐藩の参政、吉田東洋に召し抱えられ、土佐藩の経済官僚としての役割を担うことになります。

長崎を訪問し、これからは海運業が伸びると考えた弥太郎は、明治政府によって商取引が自由化されると、1870年、三菱の前身となる九十九商会を立ち上げます。土佐藩の船3隻を借り、東京―大阪、神戸―高知間の海運を始め、翌年にはそのうち2隻の払い下げを受け、自社の船を持つのです。

三菱が躍進したのは、1874年の台湾出兵と、1877年の西南戦争でした。明治政府は台湾出兵に際し、10隻の大型船を購入。出兵を主導した大久保利通は、国策会社として設立した日本国郵便蒸汽船会社に兵糧武器を輸送させようとしましたが、同社はさまざまな理由をつけてこの要請を受けようとしませんでした。

業を煮やした大久保は弥太郎を呼びつけ、この輸送を依頼。彼はその場で決断します。大きな決断をすぐにできたのはなぜか。それは、猛勉強による知識の多さと人脈を駆使した情報収集です。彼は好奇心が強く、“情報感受性”に長けた人物でした。そして台湾出兵は成功し、三菱は政府の助成を受けるようになります。ほどなく解散した日本国郵便蒸汽船会社の船18隻は、三菱がすべて無償で譲り受け、「郵便汽船三菱会社」に改名。さらに西南戦争の兵糧武器輸送を一手に引き受け、大きな利益を得ました。瞬く間に日本の海運業のトップにのし上がるのです。

ここまでの話を聞けば、弥太郎の成功は、貧しい生まれからくるハングリー精神と牢獄の算術が掛け合わさって生まれた士魂商才と、持ち前の決断力によるものに思えるかもしれません。