幕末から明治にかけて、日本には莫大な財を成した4人のイノベーターがいた。彼らはどこが違っていたのか。雑誌「プレジデント」(2018年2月12日号)の特集「仕事に役立つ日本史入門」より掲載記事を全4回で紹介しよう。第2回は「岩崎弥太郎の事業の起こし方」について――。

参勤交代を見て、徳川の終焉を確信

三菱財閥の創設者、岩崎弥太郎は土佐藩の地下浪人(じげろうにん)という身分の非常に低い武士でした。

上級武士から屈辱的な差別を受け、農民からも蔑まれるほど貧しかった弥太郎は、明治維新の数年前に知人から岩崎という苗字を買いました。苗字すらも持っていなかったのです。

今では「三菱、三井、住友」と、日本三大財閥の中でも最も先に名があがる三菱ですが、江戸前期から200年以上続いた豪商の三井、住友と違い、1870年に弥太郎が36歳で創業するまで存在すらしませんでした。それから弥太郎が三菱を巨大な財閥にするまで、わずか15年。弥太郎はなぜ、それほどの成功を成し得たのでしょう。

貧困と差別のなかで強い反骨精神を持ち、立身出世を志した弥太郎が選んだ道は、まずは学問を究めることでした。武骨に見える弥太郎ですが、幼少期の強い向学心と明晰な知性を認められ、土佐で最も高名な儒学者、奥宮慥斎に学びます。そして奥宮の出府に随行し江戸に行きます。

江戸で豪華絢爛たる大名行列を見た弥太郎は、「あんな形ばかりのことに力を入れ、いつまでも太平の夢を見ているようでは、もう徳川の天下も末ではありますまいか」と奥宮に言い放った。それはペリー来航の後、アメリカに開国を迫られ、安政の大獄へと繋がる弾圧政治が始まった頃でした。弥太郎は幕府と幕臣のあまりの危機感のなさに失望したのです。

その後、江戸で高名な儒学者の下で学問を続ける弥太郎が、稀代の事業家へと転身した転機はなんと、木こりに算術を教わったことでした。父が土佐で暴力事件を起こし、帰郷して父を助けるために奔走した弥太郎も投獄されました。その牢獄のなかで、同室にいた木こりに算術を教わるのです。

▼岩崎弥太郎
1835年:土佐藩の貧しい下級武士の家に生まれる
1854年(20歳):江戸遊学に出る
1858年(24歳):投獄され、木こりに算術を習う
1859年(25歳):藩命により長崎派遣。その後罷免
1867年(33歳):再び長崎赴任。開成館長崎商会の主任に
1870年(36歳):九十九商会(後の三菱商会)発足
1874年(40歳):台湾出兵の軍事輸送を政府より受命
1877年(43歳):西南戦争で軍事輸送を政府より受命
1879年(45歳):東京海上火災の設立援助など多分野に参入
1885年(51歳):永眠 

※歳は数え