※本稿は、宮下洋一『安楽死を遂げるまで』(小学館)の第6章「殺人医師と呼ばれた者たち」を再編集したものです。
「事件」に揺れた集落
パタパタパタパタパタ……。
住民たちは、空を見上げた。普段は静寂な町が騒々しい。テレビをつけると、地元の田園風景が上空から映し出されている。人口7400(当時)の深閑とした田舎町に、張りつめた空気が立ち込めたのは、1996年のことだった。
同年4月27日。国保京北病院(現・京都市立京北病院)の山中祥弘(78 ※年齢は取材時点)院長が、当時48歳の末期癌患者・多田昭則(仮名)に対し、筋弛緩剤を点滴の中に投与して死亡させた。1カ月後、院内の内部告発から警察が捜査に乗り出し、6月に事件が表面化して報道が過熱。その後、殺人容疑で書類送検されるが、翌年の12月12日、嫌疑不十分で不起訴処分が決まった。
京北町(現・京都市右京区)という小さな町で、あの時、一体何が起きたのか。それは、「安楽死」だったのか、不起訴処分は正しかったのか。そして何よりも、山中元院長を崇めてきた地元民は、この事件をどう捉えたのか。
「教祖様のような存在でした」
2017年1月下旬。京都駅から国道162号線を約1時間、北へ――。私には未知の土地となる京北町に、慣れない右ハンドルの車を走らせた。雪が山間と集落を銀色に染めていた。海外在住が長く、土地勘があるはずもない私は、観光地とは別の京都を知るだけでも好奇心が湧いていた。
京北町は、1955年に、周山町と、細野、宇津、黒田、山国、弓削の1町5村の合併により誕生した。昔ながらの風情が残る静かな集落である。
この町の中心に静かに佇むのが京都市立京北病院だ。ベージュの壁で囲まれた、この病院は、京北町が2005年に京都市に編入合併され、右京区になるまで国保京北病院という名称だった。地元民は、地域医療を支えるこの病院こそ、町全体の健康を約束する場所と信じていた。そして、その中心を担ってきたのが、山中だった。ある40代男性は、山中のことを「教祖様のような存在でした」と語った。
この町に住む50代女性は、78年から18年間、院長を務めたベテラン医師を懐かしむように、こう話した。
「ええ先生やったね。町の人たちからも物腰の柔らかい先生で有名やった。私の父も何かある度に山中先生、山中先生て言うてはりましたよ」
しかし、私が当時の「事件」に触れると、突然、彼らは険しい目つきに変わり、返答を渋り始めた。悪口は言いたくない、というような態度に見えた。
病院に入り、受付の横にある椅子に腰掛けてみる。人気をまるで感じない。ここで、あの騒々しい事件が起きたことを想像するのは難しかった。しばらく座ったまま、私は、ここに来る3カ月前の一時帰国中に、山中と京都市内で会ったことを思い出していた。
カルテは語る
山中は、事件の舞台となった京北病院を離れ、1999年から現在に至るまで、京都市左京区にある療養型病院で、医師を続けている
「わざわざ京都までお越しくださって、ありがとうございます。ささっ、こちらへどうぞ」
事件当時58歳だった山中はこの時、78歳。白髪で色白、グレーの背広に洒落た黒いネクタイをきちっと結んでいて、服装に気遣っている老紳士だった。
山中はインタビュー開始とともに、机の上に、1996年に起きた事件の証拠品ともなる『看護記録II』と題された患者のカルテを並べた。一度は京都府警本部から検察に送られたこのカルテは、彼が嫌疑不十分で不起訴になった末に返却された。
その少し黄ばんだカルテを覗き込んでみる。日付は、多田が亡くなる96年4月27日のページだ。午前6時半から、赤色のボールペンで書き出されている。