大阪・岸和田生まれ。前職は大工、中古車販売……

【田原】山崎さんは大阪・岸和田の生まれ。当時はどんな子どもでした?

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【山崎】なんといいますか、あんまり勉強を一生懸命やるタイプではなかったですね。それよりも仲間たちと遊んでいるほうが楽しいという……。

【田原】いわゆる、やんちゃ坊主?

【山崎】まあ、そうです。中学卒業後は、大工の見習いになりました。べつに大工になる夢があって高校に進学しなかったわけではないです。勉強するモチベーションがなくて進学しなかったので、何か仕事をしないといけないと大工見習いになりました。

【田原】大工さんはどれくらいやっていたの?

【山崎】3~4年です。工務店で土木も含めていろんな仕事をやりました。20歳のときには自分で独立して中古車販売の会社を始めました。

【田原】どうして自分で事業をやろうと思ったんですか。

【山崎】当時の僕の頭では、大企業に勤めることは難しい。ただ、起業家になって大きな会社をつくることだったら可能性がないわけではない。それなら1度きりの人生、チャレンジしてやろうと。あと、当時、僕のまわりには、学校に行かずに後悔している人たちがけっこういました。少し上の人たちは、子どものころの自慢話はポンポン出てくるけど、いま何をやっているのかという話になると、うつむいてしまう。みんな向上心を失ってしまうんです。そんな中で、学校に行かなくても何かやれるんだということを後輩たちに示したかった、という思いもありました。

【田原】起業するにしても、建築ではなく、どうして中古車販売を?

【山崎】僕もそうでしたが、田舎なので、18歳になったらみんなたいてい免許を取るんです。だから地元で中古車の需要が高いことはわかっていました。

【田原】中古車を売るのは、まず仕入れなきゃいけませんね。そのノウハウや資金はどうしたんですか。

【山崎】僕らは先に注文をもらってから車を仕入れていました。中古車の仕入れはオークションが中心で、オークションは業者の規模に関係なく個人商店でも落札できます。仕入れから納車して代金をもらうまで時間があるので、そこは運転資金が必要。最初に数百万円を借金しました。

【田原】先に注文って、どうやって注文を取るんですか。

【山崎】地元の友人に紹介してもらったり、いろいろなところで声をかけたりですね。たとえば居酒屋に行って隣の席で車の話をしてる人がいたら話をしたり、コンビニで車の本を読んでいる人がいたら名刺を渡したり。逆に、家の前で洗車してる人に「この車売ってくれ」と声をかけたこともあります。当時はとにかく動けば営業という感じでした。