無理筋の要求を受け入れ続けた日本

韓国の反日教育は、朴正熙の後継者の全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領ら軍人政権時代も、一貫して続けられました。今日の韓国人の中年層の反日感情は、この全斗煥時代の反日教育で養われたものです。

全斗煥は国内の反日教育を徹底するのみならず、日本の歴史教科書にもクレームを付け、1982年、記述の修正を要求しました。そして、歴史認識問題を外交カードに使いながら、日本に資金援助を要求しました。全斗煥政権は「韓国は北朝鮮の脅威から日本を守る防波堤になっている」と主張し、「防波堤」があるからこそ、日本は安心していられるのだから、日本はその代価を韓国に支払うべきだと要求したのです。

こうした全斗煥の無理筋の要求に対し、日本は大人の対応をしました。1983年、中曽根康弘元総理の訪韓の際、7年間で40億ドルを目途とする円借款を供与することが決まりました。

当時の中曽根総理や安倍晋太郎外務大臣は「韓国は様々な試練・苦境を経て、今がある、少々のことならば寛大に」ということで、韓国の要求を受け入れたのです。翌1984年、全斗煥は韓国大統領として初訪日し、昭和天皇主催の宮中晩餐会にも招かれました。

全斗煥を親日とする見方もありますが、朴正熙と同様、その実態は「用日」というべきです。日本は、韓国の「用日」のスタンスを知りながら、要求を聞き入れました。しかし、韓国は自らの要求が通って姿勢を和らげるどころか、ますます「歴史認識問題」を対日交渉で優位に立つための恫喝(どうかつ)の材料として利用するようになります。不幸なことに、日本国内にも韓国側のこうした主張に同調し、政権批判を展開する向きが少なくありませんでした。

「歴史認識問題」が外交カードに

1986年、第3次中曽根内閣で文部大臣に任命された藤尾正行は、歴史教科書問題に関連して「(1910年の)韓国併合は韓国との合意の上に形成された」と発言。これに対して韓国側が強く反発します。中曽根は藤尾に自発的な辞任を求めますが、藤尾は中曽根のやり方を「その場しのぎの外交」と批判し、辞任を拒否。そのため、中曽根は藤尾を罷免します。

こうした日本の姿勢に意を強くした韓国は、歴史認識問題や教科書記述問題を持ち出しては経済支援や技術支援を得る手法を確立させ、それが歴代の政権に引き継がれていきます。