「逆境」での自分磨きが「大飛躍」へのカギ

西郷はなぜ自殺しようとしたのか。藩主島津斉彬が急死したとき、西郷が殉死しようとしたのを月照にいさめられ、思いとどまったという経緯があったからだ。受けた「恩」を返そうとしたのである。「受けた恩は返す」という考え方は「至誠」そのものであり、今日のビジネスでも軽視してはいけないことである。

西郷が悟りの域に達したのは、藩父島津久光の命に逆らったという理由で、徳之島を経て沖永良部島へ流されたときだ。海辺のふきっさらしの狭い牢獄に込められ、みるみるうちに痩せ細って死と向き合った。監視役の土持正照から「用事があったら鳴らしなされ」と拍子木を渡されたが、一度も拍子木を使わず、端然とした姿勢を崩さなかったという。見かねた土持が代官と掛け合って自宅に座敷牢をつくり、そこに移ったことで西郷は九死に一生を得たのである。土持の人情に触れ、島人たちとも交流を深める中で西郷が悟ったのが、先述した「敬天愛人」という境地だったのである。

『考証・西郷隆盛の正体』(城島明彦著・カンゼン刊)

「胸突き八丁」という言葉がある。富士登山で頂上まであと八丁(約872メートル)付近の険しく厳しい場所の意味から転じて、人生のあらゆる場面での「正念場」をいうが、人はそのようなつらく苦しい局面に立たされると、音を上げ、そこから逃れたくなるものだ。だが、渾身の力を振り絞って自分自身の中の「弱気の虫」と格闘しながら突き進んでいくと、その正念場を乗り切ることができ、人として大きく成長し飛躍することができるのだ。その成果はすぐには現れないかもしれないが、いつか必ず花開くときが来るはずである。

そのときの心得について、西郷隆盛はこういっている。

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を盡(つくし)て人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」

これは、旧庄内藩士が編集した『南洲翁遺訓』に出てくる言葉である。

庄内藩は、江戸の薩摩屋敷に放火して戊辰戦争のきっかけをつくっただけでなく、最後の最後まで西郷が率いる官軍と戦った仇敵である。したがって、どんな厳しい処分が下っても不思議ではなかったが、西郷が下したのは「切腹ゼロ、藩主は菩提寺で謹慎、藩士は自宅で謹慎」という誰も予想しえなかった寛大な処分だった。「昨日の敵は今日の友」という西郷の考え方を知った藩主らは、深い感銘を受け、戦争が終わると「おいの役目は終わった」といって鹿児島に帰っていた西郷を大勢で訪ね、教えを請うたのである。

庄内藩士は、その後、そのときの講義録を小冊子にしたが、西郷が西南戦争で賊徒となったためにすぐには日の目を見なかった。人々の目に触れるようになるのは、先述した大日本帝国憲法発布に伴う大赦で西郷さんの名誉が回復されてからである。

城島明彦(じょうじま・あきひこ)
作家・ジャーナリスト
1946年、三重県生まれ。早稲田大学政経学部卒。東宝、ソニー勤務を経て、短編小説「けさらんぱさらん」で文藝春秋の「オール讀物新人賞」、作家となる。著書は『「世界の大富豪」成功の法則』『宮本武蔵「五輪書」』『吉田松陰「留魂録」』『広報がダメだから社長が謝罪会見をする』『ソニーを踏み台にした男たち』『恐怖がたり42夜』など多数。近著に『考証・西郷隆盛の正体』『中江藤樹「翁問答」』がある。
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