「武闘派」を理解しないと評価を見誤る
人間、ときには周囲をあっと驚かせる大胆な言動も必要だ。西郷隆盛がそうだった。
明治維新は、それまで敵対していた薩摩・長州の両藩が、坂本龍馬らの仲介で一転して手を結んだことで実現した。そのための話し合いでは、長州藩の代表木戸孝允の主張に対して薩摩藩としていくらでも反論できたのに、西郷は少しも反論せず、「ごもっともでございます」といったと品川弥次郎は語り、「そこが西郷の大きいところだ」と褒めたたえている。品川弥次郎は、吉田松陰の私塾「松下村塾」で教えを受けた英才の1人だ。
西郷隆盛は「武断派」である。このことを理解しないと、評価を誤る。つまり、西郷がよって立つ行動規範「知行合一」は、中江藤樹を始祖とする「日本陽明学」という革命思想で、吉田松陰も松下村塾の掛け軸にこの四文字を記している。陽明学は中国の明の時代に王陽明が唱えた思想だが、政治との結びつきはなかった。しかし、日本では政治と強く結びつき、幕府を倒す革命思想として独自の進化を遂げたので、「日本陽明学」と呼んでいる。
西郷は一言が重い。1967(慶応3)年に将軍が統治権を天皇に返還した「大政奉還」に続いて、「王政復古の大号令」が発せられた夜、徳川家の処遇をめぐって、御所の小御所で開かれた会議(小御所会議)が紛糾したときに、外で護衛を指揮していた西郷は「ドス一本あれば片付く」と言い捨てた。それを伝え聞いた岩倉具視はそれまでの優柔不断さが消し飛び、懐に短刀を隠し持ち「いざとなったら差し違える」と決意を固め、対立していた山内容堂は反対意見を引っ込めたことで、難題は一気に決着したのである。
後に新政府が「版籍奉還」を決めかねているときも、西郷は「文句をいう藩がいたら、近衛兵を率いて攻め込むまでだ」といって、その場をまとめた。西郷の愛読書『史記』(李斯伝)に「断じて行えば則ち鬼神之を避く」(断固たる態度で物事を行えば、どんな困難なことでも成功へと導くことができる)とある。
西郷隆盛の人格に磨きがかかったのは、逆境下の失意の中でだった。西郷は二度「島流し」に遭い、奄美大島、徳之島、沖永良部島の3島で通算5年間にも及ぶ逆境に置かれた。最初の奄美大島への島流しは、大老井伊直弼の恐怖政治「安政の大獄」のとばっちりで、幕府に命を狙われた尊攘僧の月照を逃走させようとして果たせず、責任を痛感して入水自殺したのだが、西郷だけ息を吹き返した。
藩は幕府とのごたごたを避けようとして、西郷を奄美大島に流して身を隠させたのである。そのとき西郷は島妻と結婚し、菊次郎、菊草(菊子)の2子をもうけている。菊次郎は9歳で、菊草は14歳で鹿児島の西郷家に引き取られた。