「降りる」無念を男は知らない

世代や雇用形態のギャップは、男性にもあるものだが、なぜ女性の場合は特有の対立が生まれるのだろうか。牛窪さんは、「女性には出産というタイムリミットがあるから」と看破する。

妊活という言葉に表れるとおり、女性にとって出産が「誰でも当たり前にすること」ではなくなってきている。でも、多くの女性は「産む」前提で、40歳ぐらいまでに1度は「産めるだろうか」と真剣に悩む。産んでも今度は、バリバリ働く人生、可能だったかもしれないもう一方の道から「降りる」ことになる。

ところが男性は、「子どもはいつでもつくれる」という認識を持つ人が多く、女性ほど切迫したプレッシャーを感じずにすむ。すると、「降りる」という感覚を持つことなく「いつでも選べるけれど、まだ俺は選んでいないだけ」というゆるゆるとした状態を保てるため、自分と異なる選択をした同性と反目し合うほどにはならないのだ。

牛窪さんは女性心理をこう分析する。

「女性の場合は、自分の責任でこの道を選んだという思いがあり、どこかで自分を納得させなければならない。その一方で“隣の芝”を選んでいれば、もっと幸せになれたかもという思いも抱えて生きているわけです。そういう中で“隣の芝”が権利を主張してくると、『いやいや、私だってそっちを選ぼうと思えば選べたのに』とか、『本当はそっちに行きたかったのに行けなかったんだ』とか、複雑な思いでモヤモヤすることになる。そこが男性とは決定的に異なります」

女性同士の泥沼のような戦いに、どこか悲痛さが感じられるのは、こういうわけなのだ。

趣味にしても、「俺流」とは違う流派に対してそもそも興味がなく、反目しにくいのが男性。一方、女性は少女時代からブランドの好みや化粧の濃さ、愛読している雑誌が何系かなど、消費活動にさえ相手との細かな差を敏感に察知し、対立を生じさせる。牛窪さんは「現代の価値観の対立はSNSが強く影響している」と指摘する。

20~30代半ばの世代は、物心がついたときから青春時代まで、メールやSNSを介したコミュニケーションが基本。ミクシィに始まり、趣味などを媒介として、コミュニティごとにまとまる行動をとってきた。

「女性は男性に比べ、社会的に認められる機会が少ないため、自分らしさというものをより大事にしている。しかし、自分らしさとはとても曖昧な評価軸であり、人と比べたり相手を否定したりしないと、自分を評価できないという図式になりがちなのです」

また、ヒエラルキーのつくり方にも女性ならではの特徴があるという。

「男性の場合、ジャイアンのような強くて威厳ある存在がリーダーに君臨しがちです。一方、女性たちはモテ、コミュ力、情報力などを基準として、なんとなくお互いに調整しながら協調する。女性のヒエラルキーは、その中で誰かがお金持ちと結婚していいマンションに住んだとか、子どもが名門校に入ったなんていう出来事が起こると、その均衡が崩れ、対立が露呈しやすいのです」

女性は幸せの基準も、立場の上下の基準も、とても曖昧で揺らぎやすいものなのだ。