伝統を守ることと革新を続けること

それが、昭和25年に発売された「オールド」で決定的になる。信治郎が、このウイスキーに求めたのは丸味だという。「そら飲みやすさや。日本人は日本酒やと決めつけてるから、日本酒が売れると思うたらあかん。日本酒には口当たりの丸味があんのや。それをウイスキーにも出さんとあかん」という考え方から希代のウイスキーが生まれる。

正面から見ると丸みのある四角、上からのぞくと楕円形のボトルはダルマの愛称で親しまれた。価格もそれまでの日本のウイスキーでは一番高かった。それはもはや“ジャパニーズ・ウイスキー”と呼ぶべきもので、スコッチの名品と比較しても、決して遜色はないといっていい。

『琥珀の夢 上 小説 鳥井信治郎』(伊集院静著・集英社刊)

その後、サントリーはウイスキー市場でトップランナーとして君臨を続け、シングルモルトウイスキー「山崎」は海外でも多くの品評会で認められるほど評価が高い。私は、佐治信忠会長に「なぜ、世界コンクールで日本のウイスキーが優勝するのか」と尋ねたことがある。返ってきた答えは「向こうは本当の改革をしないからだ」というものだった。伝統をかたくなに守り、昔のままでの製法でしか造っていない。だから「スコッチには勝てる」と確信したと話してくれた。

この小説は日本経済新聞に連載されていたことから、多くのビジネスマン読者を得ることができた。企業では、ヒット商品を開発し、利益を上げられるビジネスモデルの確立が急がれている。その現場を担う人たちが、信治郎の生き方に触れ「この情熱と夢が今の日本をつくった」と知ってくれれば幸いだ。

そして、そのDNAが現在のサントリーの経営陣と社員に脈々と受け継がれているということが見事なのである。だから、この小説は鳥井信治郎の単なる成功譚ではなく、現在進行形の企業小説といっていい。サントリーでは、何か事をおこすとき、合言葉が「やってみなはれ」だというのは有名だ。そんな挑戦的な社風は強い。

伊集院静(いじゅういん・しずか)
1950年山口県生まれ。立教大学文学部卒。CMディレクターなどを経て、81年『皐月』で作家デビュー。91年『乳房』で吉川英治文学新人賞、92年『受け月』で直木賞。94年『機関車先生』で柴田錬三郎賞、01年『ごろごろ』で吉川英治文学賞をそれぞれ受賞。現在も小説、エッセイを精力的に執筆。近著に日本経済新聞の連載を書籍化した『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』(集英社)がある。
(構成=岡村繁雄 撮影=澁谷高晴)
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