洞察力と決断力こそサントリー隆盛の原動力
富国強兵が叫ばれ、西欧化の風潮が庶民にもおよびはじめた明治後期、信治郎は洋酒に賭けた。丁稚時代にぶどう酒とビールを知り、やがてスコッチウイスキーにも接する。最初のひと口こそ「何や、風邪薬みたいに苦いな」と顔をしかめるものの、天が彼に与えた嗅覚が、この酒の将来性を嗅ぎ分けた。それはまさしく商人としてのすぐれた洞察力というほかない。
その意味で、この物語のクライマックスは下巻に取り上げた山崎蒸留所の建設だ。それまでの混ぜ物だった合成酒ではなく、本格的な国産ウイスキーに挑むためである。京都郊外、天王山の麓に位置する山崎峡は、桂川、宇治川、木津川が合流する地点にあり、気候も四季折々の変化に富む。また、千利休もこの地の水に惹かれ、茶室「待庵」を構えたほどで、関西以西では最もウイスキーづくりに適していた。
とはいえ、周辺には20を超える神社仏閣が集まり、土地の買収が困難なのは目に見えていた。だがここでも、信治郎に順風が吹く。妻のクニが数年前から夫の名代として大小の寺社に参詣し、多額の寄進をしていたからだ。それを知った地主たちは、西洋の酒というだけで反対していたのだが、一転して土地を手放すことに同意した。確かに運は事業経営にとって大切な要素だ。とはいえ、それを生かすも、殺すも経営者の心がけ次第なのである。
しかし、その建設費は当時で200万円を超した。現在の金に換算すると十数億円にものぼる。加えて、原酒を仕込んでも、5年、10年も樽で寝かせておかなければならず、資金は出ていくだけ。どんなウイスキーができるかもわからず、売り上げのめどは立たない。莫大な借金をしての国産ウイスキー生産は周囲から猛反対にあう。
だが、信治郎は諦めなかった。彼がまだ丁稚奉公をしていた時分、雲や海の向こうからお天道さまが昇って来るように、周りがきらきらと光り出す夢を見たことがある。彼は「あれは何ちゅう色なんやろか」と丁稚仲間に語っているが、後年、その色こそが“琥珀”、つまりウイスキー本来のものだと知り、どうしても自分の手で醸し出そうと決意していたからだ。
ようやく、山崎蒸留所から「サントリーウ井スキー白札(後のサントリーホワイト)」、そして「角瓶」が誕生するのは昭和に入ってからのことである。出だしこそ売れ行きは芳しいものではなかった。けれども、飽かずにブレンドに精を出し、ボトルのデザインを工夫するなど試行錯誤を続け、徐々に大衆に受け入れられるようになっていく。つまり、信治郎の洞察力と決断力こそサントリー隆盛の原動力だった。